<よみがえる明治のドレス・7>洋装視察でけん引 皇后の外出先 思い入れ体現

2021年4月6日 07時13分

明治後期、ドレス姿で赤十字大会に臨む昭憲皇太后の写真=国立国会図書館蔵

 明治天皇の后(きさき)、昭憲皇太后(美子(はるこ)皇后)が昼さん会や面会、公的な外出の際などに着用していた通常礼服(ローブモンタント)。洋装姿の活動の一端は聖徳記念絵画館(新宿区)が所蔵する壁画(縦三メートル、横約二・七メートル)にも描かれている。明治の皇后の外出先トップ3は、現代の皇室活動とも一部通じる医療・福祉、女子教育、殖産興業の現場だった。
 明治天皇の生涯を軸に、幕末から明治までの日本の出来事を描いた壁画八十点が展示されている聖徳記念絵画館。明治の皇后を描いた壁画も十三点あり、服装の変化が一目で分かる壁画が隣り合っている。

和装から洋装へ。和装で臨んだ華族女学校開校式(右)と洋装で訪れた東京慈恵医院=聖徳記念絵画館で

 皇后の和装が描かれた「華族女学校行啓(ぎょうけい)」(壁画番号48)と洋装が描かれた「東京慈恵医院行啓」(同49)で、服装が和装から洋装に転換した一八八六(明治十九)年前後の対照的な雰囲気を伝えている。
 華族女学校(現学習院女子大)は皇后の命により設立された女学校で、皇后が和装で出席したのは八五年十一月十三日の開校式だった。皇后が公式の場に初めて洋装で現れたのも、八六年七月三十日の華族女学校の卒業式で、以来公の場では洋装で通したとされる。その一週間前、宮中の女子に洋服採用の通達が出されていた。この日の卒業式に同行した皇后宮大夫の香川敬三は皇后の洋装を「かなりお似合い」と英国留学中の娘志保子宛ての書簡(香川家史料・同年七月三十一日付)の中で伝えている。
 華族女学校は当時、天皇、皇后の住まいがあった赤坂仮皇居の隣地にあり、音楽や体育を含む授業の様子をたびたび視察に訪れていた。女子教育は皇后が最も力を注いだ社会的な活動の柱の一つだった。

鮮やかな洋装姿が描かれた観菊会の様子=聖徳記念絵画館で

 東京慈恵医院(現東京慈恵医科大)は「有志共立東京病院」として設立された貧しい人を診療する病院で、壁画は八七年五月九日の開院式後、患者を見舞う姿を描いた。同医院は七七年に設立された赤十字社(旧博愛社、現在の日赤)と並ぶ医療・福祉の拠点施設で、皇后はこの二つの団体を核に福祉事業を推進した。
 絵画館には皇后の和装の壁画も六点あり、七三年に富岡製糸場を訪れた和装姿の壁画もその一つ。皇后の足元をよくみると、洋装の兆候とみられる赤い靴がのぞくが、見逃せないのは七一年に宮中で養蚕を復活させた皇后の先見性だ。
 幕末、欧州を舞台に蚕の伝染病の大流行で世界的な生糸不足に陥り、生糸は日本の主要な輸出品目となった。横浜の外国商人から日本産の生糸の製造の粗末なことを耳にした渋沢栄一らが中心となって、官営の富岡製糸場設立につなげた。
 明治天皇の「御真影」が普及する明治二十年代以降、明治天皇の外出はめっきりと減るが、洋装着用後の皇后の活動はそれまで以上に活発化する。
 明治神宮国際神道文化研究所主任研究員の打越孝明さんによると、皇后の服装が洋装化した八六年七月以降、最も多い外出先は、観桜会などが行われた浜離宮の五十三回。分野別では、華族女学校の四十回がトップで、次いで東京慈恵医院関連が三十一回、赤十字社関連が二十五回の順。殖産興業を推奨する内国勧業博覧会にも十一回出席している。
 「昭憲皇太后は、早くから女子教育、医療・福祉、殖産興業の推進に強い関心を寄せていますが、ご自身で洋装の着用を決断すると、積極的にそうした分野への関わりを深められました。結果として、そうした取り組みが新時代の日本の女性の生き方に大きな影響を及ぼしたのではないか」と打越さんは指摘する。
 文・吉原康和/写真・佐藤哲紀
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