50年迎えた多摩ニュータウン 地域と人つないで 創刊35年フリーペーパー「もしもし」 

2021年4月7日 06時56分

多摩ニュータウンの街並みを背に思い出を語る「もしもし」の五来恒子社長

 高度経済成長期の一九六〇年代、多摩丘陵を開発して造られた多摩ニュータウンに、最初の住人が入居してから三月で五十年を迎えた。そこで暮らす人たちをつなごうと、八五年から発行を続けるフリーペーパーがある。稲城市から八王子市にまたがるニュータウン全域に配布している「もしもし」(多摩市)だ。コロナ禍の危機を地域の力で乗り切ろうと、昨秋からは地元飲食店の弁当を届ける新たな取り組みも始めた。
 「『いつも届くのを楽しみにしています』『(この記事が)とても良かった』。そんなはがきが届くんですよ」。社長の五来(ごらい)恒子さん(44)は、多摩市の鶴牧東公園の高台から近くのニュータウンを一望し、もしもしの歴史を振り返った。

創業者の長谷川豊子さん

 同紙は五来さんの母の長谷川豊子さん(74)が創刊した。きっかけは、中野区からニュータウンの「松が谷団地」(八王子市)に引っ越して間もなく起きた「悲しい事件」。団地で暮らす家族が亡くなり、発見されたのは約一週間後だった。「扉を隔てた向こう側が見知らぬ人になってはいけない」。住人の孤立化に危機感を募らせた長谷川さんは一人で自宅の机に向かい、「奥さまもしもし新聞」を作り上げた。
 八五年九月の創刊号は二万部作成し、家族も総出で団地の郵便受けに投函(とうかん)して回った。「地元の商店街で食べるご褒美のソフトクリームが楽しみだったんです」。当時、小学四年生だった五来さんはそう言って笑った。

「もしもし」の恒住智美編集長

 読者は女性を想定した。区部の住宅難解消を目的に開発されたニュータウンには多くの若い家族が入居。夫が都心のオフィスで働いている間、団地で過ごす妻を「孤立させない」との思いを込めた。イベントや商店、地元で活躍する女性などを紙面で紹介。交流の場を提供し、参加者の輪を広げていった。
 総面積約二千八百ヘクタールの広大な敷地に約二十二万人が暮らすニュータウンは、二〇〇六年までの長期にわたり順次、開発された。新たな住宅が整備されると、新聞の配布エリアも拡大。時代とともに読者は女性から家族へと変わり、タイトルも一九九三年に「もしもししんぶん」、創刊三十五年を迎えた昨年に「もしもし」に変更した。現在は毎月二回、一号あたり九万四千部を発行。五来さんら約二十人が新聞制作などにあたり、ポスティング担当のスタッフ約百二十人がそれを支えている。

多摩市のオフィスで編集作業などを行う「もしもし」のスタッフ

 当初の印刷費を十年かけて返済するなど苦難を乗り越えてきたが、ここに来てコロナ禍に見舞われた。地元商店の経営苦で、新聞発行の原資となる広告費を集められないピンチに陥った。そこで昨年十一月、多摩市内の飲食店を応援しようとデリバリー事業を始めた。弁当には飲食店から客に宛てた直筆の手紙を同封している。編集長の恒住(つねずみ)智美さん(57)は「既存のデリバリーにはなかった人と人、人とまちをつなぐ役割を果たしたい」と狙いを語る。
 長い歴史のあるニュータウンは、住人の高齢化が課題となっているが、明るい兆しも見えつつある。建て替えられた団地には、子育て世代の家族も入居するようになった。ニュータウンで育ち、別の場所で暮らしていた人が家庭を持ち、地域に戻ってくるケースが増えているという。

もしもしのスタッフ(左)が多摩市内の飲食店の弁当を受け取り、客に届ける

 もしもしの理念は「ホットな心」。それを「つたえます」「つなぎます」「つくります」と時代ごとに変えてきた。「新たにニュータウンの一員になった人たち、次の世代の人たちにも、地域の歴史を含めて伝えていきたい」。五来さんは力を込めた。
 文・服部展和/写真・嶋邦夫
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