少女は故郷で住民の命を守る看護師になった 南三陸町を離れ、もがいた10年で「震災に向き合おう」

2021年4月8日 12時00分
 東日本大震災の直後、宮城県南三陸町で高校を卒業したばかりの少女を取材した。あれから10年。ためらいながらも、進学のため大きな被害に遭った故郷を離れることを決めた彼女は、住民の命を守る看護師になった。 (森本智之)

2011年3月、高校を卒業したばかりの高橋美里さん(中央奥)は避難所で仲良くなった子どもと笑顔を見せてくれた=宮城県南三陸町で

 高橋美里さん(28)は津波で自宅を流され、祖母と消防士だったおじが亡くなった。当時18歳。地元の県立高校を卒業し、仙台市の看護専門学校へ進むことが決まっていた。
 町は中心部が津波に襲われ、壊滅的被害を受けた。同じように進学予定だった地元の友人は、ボランティアのため地元に残ると決めた。家族のため、町のため、「自分もここでできることがあるんじゃないか」。悩んだが、その家族からも背中を押された。
 震災から10日、避難所で高橋さんに出会ったのはこの頃だ。はにかむ写真を添えて「看護の道へ 18歳『町を出る』」と記事にした。笑顔の裏の葛藤を分かっていなかったと、今になって思う。

2011年3月22日付の本紙社会面から

 町を離れて3年後、高橋さんは仙台で学生生活を終えても、就職する気になれなかった。自分でも驚くほど看護の勉強は楽しくて、向いていると思っていたのに。
 50人いた同級生に被災者は「自分くらい」で、仙台で震災の話はほとんどしなかった。ただ、時折届く故郷からの連絡で、友人や知り合いの死を遅れて知った。卒業後に震災に遭い、体験を友人たちと共有できないまま巣立った高橋さんの記憶は時間が止まったようだったという。
 気持ちを紛らわせるように、盛岡市の別の学校に進んで助産師の資格を取ることにした。1年後、看護師としてスタートを切ったのは、故郷から遠く離れた神奈川県藤沢市の病院だった。
 都心のベッドタウンで看護師も医師も若く、たくさんの患者からさまざまな症例を競うように学んだ。忙しかったが、充実していると、その時は思った。
 3年が過ぎた2018年秋、鹿児島・奄美大島にある系列の病院に応援で入った。大型台風が近づいていた。湿った空気、ざわざわする室内。不意に震災直後の避難所を思い出した。
 やがて顔の右半分がまひで動かなくなった。臨床心理士のカウンセリングで「震災のことをふたしてきたのがひとつの原因かもしれない」と指摘された。
 自分は大丈夫だと思っていた。でも、診断を受けて、「ずっとせき立てられるように生きてきた」と気付いた。

骨組みだけが残った宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎前に立つ高橋美里さん。周辺はかさ上げされて風景は一変した=同町で

 「震災に向き合おう」と思った時、心に浮かんだのが故郷だった。南三陸町の総合病院で働き始めて1年がたった高橋さんに今年3月、10年ぶりに再会した。「こんな状況で看護学校に入ったんだから勉強しなきゃ、働かなきゃってずっと『やんなきゃない』の10年だったかもしれません」と高橋さんは振り返る。「10年たって、ようやく自分の人生を歩もうかなと思えるようになりました」
 小児科で働く今、気に掛けるのは心のケアという。自分すら気付かないまま震災の記憶が重荷になっている子はないか。ゆっくりでいい。そう思えるのはこの10年があったからだ。

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