共生の“枝”を広げて コリアンタウン枝川

2021年4月9日 07時07分

江東区枝川1にある友好の象徴「朝日児童遊園」。周辺には長屋の面影を残す建物がある

 周辺にタワーマンションが林立する豊洲駅の北東わずか1キロ。江東区枝川1丁目は対照的に昭和のバラックのような街並みが一部残っている。戦前、朝鮮半島出身者が近隣から集団移住させられたと伝わる。目的の一つには幻に終わった1940年の東京五輪用地の確保もあったらしい。約80年の歳月が流れた。幻の五輪ゆかりの街に生きる人々を訪ねた。
「朝日(あさひ)児童遊園」。子どもたちの元気な声に誘われ近づくと、公園の掲示が目に入った。わきには集団移住の面影を残すトタン屋根のバラック住宅がある。
 区によると、公園は前回の東京五輪があった一九六四年にできた。住民らが共生を願って朝鮮と日本の頭文字を当てた。「ちょうにち公園」と呼ぶ人もいる。
 近くで日なたぼっこをしているお年寄りがいた。在日二世の通名・安本武雄さん(89)。「昔に比べたら、いまは天国よ」と往時を思う。「朝鮮人は、ばかにされて仕事したくても雇ってもらえなかった。近くの工場や、ごみ処理場に行って、鉄くずをさらったんだ」
 枝川の成り立ちを記した明確な資料は区にもないという。経過は住民グループ「江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会」が八六年から在日一世らに聞き取りしてまとめた書籍「東京のコリアン・タウン枝川物語」(樹花(きのはな)舎)に詳しい。
 隣接する埋め立て地の同区塩浜などは戦前の二〇年ごろから、朝鮮半島出身者が住んでいた。三六年、次の五輪の開催地が東京に決まり、万博も計画された。会場の確保のため、沖側の埋め立て地の枝川に東京市(当時)が簡易住宅を建て、移住を促した。
 記録する会の中沢康夫さん(71)は「当時の状況から、移転は実質的に強制でしょう」とみる。日中戦争の拡大で五輪開催は三八年に返上されたが、集団移住は四一年から実行された。
 当時の枝川一丁目は、ごみ処理場と消毒所しかなく、下水などインフラも未整備。「ごみ焼き場の悪臭が漂い、雨が降るとふん尿の汚水であふれた」など苦労話は事欠かない。半面、東京大空襲の際、枝川は住民の連帯で火を消し、焼失を免れた。焼け出された周辺の多くの日本人を炊き出しで支えたという。

◆80年後の今 願う

枝川で居酒屋を営む在日2世の方(パン)さん

 地域には東京朝鮮第二初級学校もある。国際情勢も絡んで、戦後もさまざまな事件やトラブルは起きてきた。それでも「住民同士、親睦を図ろうと、地域の自治会と在日の人たちが花見会に招待し合ったり、ソフトボール大会をしたりしてきた」。在日二世で地元の居酒屋「亜楽(あらく)」店主、方世杰(パンセゴル)さん(67)は強調する。
 迎えた五輪開催年。方さんは「因縁というか、巡り合わせを感じる」と言う。江東区は最多の種目が実施される五輪の拠点。「(一世の)おやじが生きていたら何と言うだろうか」と視線を遠くに向け、続けた。
 「国内では数年前から、在日に対する過激な思想が強まっている。世界に冠たる経済大国として、もう少し多様性や共生を尊重する社会であってほしい」

枝川愛の教会の牧師として活動する趙(チョウ)さん

 共生に向けた動きもある。地域の日本同盟基督教団「枝川愛の教会」に六年前に赴任した趙〓吉(チョウヨンギル)牧師(47)は今月、教会を移転しリニューアル。収容人数は二十人から五十人に増え、移転後初となる四日の日曜礼拝には豊洲地区に住む韓国人ビジネスマンや日本人ら三十人が集った。元千葉大留学生で日本で暮らして約二十年になる牧師は意気込む。
 「目指しているのはユニバーサルな教会。創設三十周年を迎える六月には誰でも集えるカフェを始める。教会と枝川の歴史もまとめたい」
 その時期は五輪一カ月前。コロナ禍に揺れる祭典の行方は、どうなっているだろうか。
※ 〓は金へんに庸
 文と写真・井上靖史
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