渡辺省亭 江戸っ子の美 浅草が生んだ、市井へのこだわり

2021年4月15日 07時04分
 日本画家・渡辺省亭(せいてい)(一八五二〜一九一八年)は、ちゃきちゃきの江戸っ子だった。生まれは幕末の江戸・神田(現在の千代田区神田佐久間町四丁目)。日本画家として初めてパリに渡航した数年を除いては、生涯を浅草界隈(かいわい)で過ごした。省亭ゆかりの浅草を、地図と作品で紹介する。
 「省亭は写生にこだわり、ひたすらに実物を観察して描いた画家。パリから帰国して以降は、国外はおろか国内を旅することもなく、住み慣れた浅草や隅田川、自邸の植物や庭に来る鳥を写生していたようです」と、東京芸術大学大学美術館・古田亮教授は語る。
 中でも浅草寺は、省亭にとって最も身近な場所であり画題であった。浅草観音堂の前に群れる鳩(はと)を描いた「群鳩浴水盤ノ図(ぐんきゅうよくすいばんのず)」は、一八七七(明治十)年の第一回内国勧業博覧会で選抜され、翌年のパリ万国博覧会にも出品された省亭の出世作である。観音堂の目と鼻の先に住んでいた省亭は、観音信仰にあつかった母の影響もあり、毎日浅草観音に参拝していたという。

龍頭観音(部分) 個人蔵(25日まで展示)

 「龍頭観音」の丁寧な描写にもその信仰心は表れている。「白衣(びゃくえ)観音図」の落款(らっかん)には、「金龍山下有髪弟子省亭復謹写」とあり、浅草寺(金龍山)の在家(有髪)の弟子である、と明確に記されている。
 観音霊場として千年以上の歴史を持つ浅草寺一帯は、江戸時代、庶民文化の拠点として大いににぎわい、近代においても東京屈指の娯楽の街だった。明治になり、国家が西洋に追い付け追い越せと大号令をかける中、美術界も展覧会や賞牌(しょうはい)での地位名声を求めるようになった。省亭は「野暮(やぼ)と気障(きざ)は親の敵」とばかりに画壇に背を向けて、市井の画家としての姿勢を貫いた。

群鳩浴水盤ノ図(部分) フリーア美術館蔵(渡辺省亭展には出品されません)

 宵越しの金は持たず、見えっ張り。気難し屋で頑固な半面、人情にもろいお人よし。『評伝 渡邊省亭−晴柳の影に』(古田あき子著・ブリュッケ刊)を読むと、粋でいなせな江戸っ子の姿が浮かび上がる。政治家や歌舞伎役者にも熱烈な信奉者を持ち、画名画料ともに別格の域に達した晩年には、食道楽、芝居道楽、柳橋の料亭通いで、高額の画料は湯水のように消えたという。
 そのような軽佻(けいちょう)な生活の一方で、節句などの季節の画題に対しては、江戸の暮らしと浅草の土地柄が育てた美意識だろう、リアリティーを重視しつつ、あえて説明的な描写を避けて思案を凝らした粋な作品を残している。男雛(おびな)と女雛(めびな)が語り合っているような「雛」は、その好例だろう。

雛(部分) 個人蔵(25日まで展示)

 江戸を愛し、下町を愛し、粋を愛した渡辺省亭。その生涯は、最期まで下町に暮らす市井の一絵師だった。
 「渡辺省亭−欧米を魅了した花鳥画−」は5月23日まで東京芸術大学大学美術館(台東区上野公園)で開催中、展示替えあり。予約不要、当日窓口販売あり。詳細は公式HPで。
 文・森優美子/写真・川上智世
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旧・浅草新畑町(現在の浅草1丁目)あたりの様子

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