学校帰りに空襲、私は生と死の狭間にいた 初の本土爆撃から79年、敵機の記憶今も

2021年4月18日 06時00分

東京・飯田橋駅から神楽坂方面を望む。小尾昭さんはここで右から左へと低空で飛ぶドゥーリトル機とみられる機体を目撃した

 太平洋戦争開戦から4カ月余りたった1942(昭和17)年4月18日、真珠湾攻撃以降の連戦連勝に沸き立つ日本に、突如、米軍機が飛来した。初めての本土爆撃「ドゥーリトル(ドーリットル)空襲」では「帝都」東京も数カ所で被害を受けた。それから79年。淀橋区西大久保(現新宿区大久保)にあった自宅付近に焼夷しょうい弾を落とされた男性にとって、間近に迫った敵機の記憶は今も生々しい。(加古陽治)

空母から飛び立つB25爆撃機

◆見慣れない機体だな?と思ったら…

 「あそこを低空で、右から左へ飛んでいきました。その後ろで高射砲の弾がボーンボーンとはぜてね」。飯田橋の駅前から神楽坂を指さし、元小学校長小尾おび昭さん(91)=新宿区=が話す。晴れた土曜の昼すぎだった。第一東京市立中(現九段中等教育学校)1年だった小尾さんは、半日授業を終えて駅に向かう途中、前方に見慣れない飛行機を見た。

ドゥーリトル空襲で被災した大久保

 当時の少年たちは、日本の軍用機ならたいてい見分けがつく。だが、低空を飛ぶずんぐりとした機体は、知っているどの軍用機とも違う。しばらくボーッとしていると、不気味な空襲警報が鳴った。敵機はとっくに通り過ぎた後だった。
 コースから、小尾さんが見たのはドゥーリトル隊長機だったとみられる。
 止まった列車が動くのを待って家に帰った。大久保通りを行くと消防車のホースが延び、路地に入る角にロープが張ってある。立っていた警官に誰何すいかされ「僕の家、ここなんです」と言って通してもらった。

◆隣家に焼夷弾が飛び込み、宮様の視察も

 自宅前の空き地から先の十数軒が焼けていたが、かろうじて自宅は助かった。はす向かいの同級生(数学者として世界的に活躍した志村五郎さん)の家も無事だった。
 夕方、防衛総司令官だった宮様(東久邇宮稔彦王)が視察に来たのを2階の窓から見たが、母に叱られて家にこもった。不思議と恐怖感はなかった。

今の大久保の街並み。焼夷弾で被災し、この道の両側が焼けた

 大久保では幸い死者は出なかったが、小尾さんの隣家では「奥さんが窓を開けたところに焼夷弾が飛び込んだ。三和土たたきに落ちて助かりました」。近くの家では飼い犬が焼け死んだ。周囲には焼夷弾が散乱し、生と死は紙一重だった。
 都新聞(東京新聞の前身の一つ)夕刊は「小癪こしゃく、敵機京浜地方に来襲 九機を撃墜・たちまち撃退 我が方の損害軽微」と1面で報じた。実際は1機も撃墜できず、空襲により東京や大阪、名古屋で計87人が亡くなっていた。
 被災を免れた小尾さんの家は、45(昭和20)年4月13日、父の実家のある山梨に疎開した翌日、城北大空襲で全焼。大久保一帯は焼け野原となった。

ドゥーリトル空襲を語る小尾昭さん

◆歴史を後世へ、原稿をつづる今日

 小尾さんら大久保小の卒業生たちは、ドゥーリトル空襲など戦争体験や戦前の暮らしをつづった原稿をまとめ、自分たちの歴史を後世に残そうとしている。
 小尾さんは言う。
 「さまざまな思い出を整理し、本にして残したい。大久保の子供たちは、戦時中でもどっこい生きていた。これから先もいろんな問題が起こるでしょうが『われわれも頑張ってきたんだからこれからの世代も頑張って』というメッセージになるんじゃないかと思うんです」

 ドゥーリトル(ドーリットル)空襲 1942年4月18日朝、太平洋上の米空母ホーネットから16機の爆撃機ノースアメリカンB25ミッチェルが飛び立ち、東京や埼玉、川崎、名古屋、大阪など各地に爆弾や焼夷弾を投下した初の本土空襲。作戦を指揮した1番機の機長名からドゥーリトル(ドーリットル)空襲と呼ばれる。全国で87人が死亡、500人近くが重軽傷。東京では尾久、早稲田鶴巻町、大久保、品川などが襲われ、十数人が亡くなった。

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