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【東京エンタメ堂書店】

<江上剛のこの本良かった!> 私の「カズオ・イシグロ体験」

 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの本を私が紹介するなんてあまりにもおこがましくて汗顔の至りだが、私流のカズオ・イシグロ体験を語りたい。

◆私たちはなんのために存在

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 最高傑作だと思うのは<1>土屋政雄訳『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫、八六四円)。怖い小説だ。いわゆるディストピア(暗黒郷)小説というのだろう。主人公は三十一歳の介護人(いったい何の?)。

 物語は思い出話から始まる。彼女は寄宿舎付きの学校「ヘールシャム」育ちだ。著者の一人語りは抑制がきき、なんとも心地よい。これは英国の寄宿舎生活を描いた物語なのかなと思いながら読み進める。ところが徐々に違和感を覚え、何かがおかしいと気付いた時は既に手遅れ。恐怖にわしづかみされてしまった。

 「ヘールシャム」は臓器提供のためのクローン人間を育てる場所だった。そこで育つ男女は、自分の臓器を他者に提供したら役目を終え、死ぬ。長く生きられない。恋もままならない悲しい運命の彼らを、同じクローン人間の主人公が介護し…。

 著者はこれを全くの空想で書いた未来の世界だと言うが、私には現実だと思えて仕方がなかった。著者には第二次世界大戦にこだわる作品が多いが、あの当時、日本でも英米でも徴兵制があり、誰もが若くして死ぬ運命にあったではないか。実際、私たちは誰かに何かを提供するために生まれてきたのだろうか。なんのために存在しているのだろうか。

◆人生に対する姿勢そのもの

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 <2>入江真佐子訳『わたしたちが孤児だったころ』(同、一〇一五円)

 主人公は私立探偵として難事件を解決し、ロンドン中に名前がとどろいていた。彼は幼い頃から“ホームズ”になりたかったという変わり種だが、かつて上海の租界で暮らしていた。父の仕事は謎に満ち、美人で聡明(そうめい)な母と絶えずいさかいをしていたが、父は突然、失踪してしまう。続いて母もいなくなる。

 孤児として成長した主人公は日中戦争の最中、上海に渡り、父母の失踪の謎を解明しようとする。果たして謎を解くことができるのか。最後に主人公は「消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善をつくすより他ないのだ」と悟るが、これは私たちの人生に対する姿勢そのものだ。主人公の人生を追体験しながら謎を解く、秀逸なミステリーとして楽しめる。

◆自分の人生を肯定したく

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 <3>土屋政雄訳『日の名残(なご)り』(同、八二一円)

 私のカズオ・イシグロ初体験はアンソニー・ホプキンスが主演する本作の映画化。著者の語り口そのものの抑制のきいたアンソニーの演技にしびれてしまった。

 主人公は誇り高き執事。戦前の欧州政治のもう一つの舞台となったダーリントン・ホールの運営を任されていた。しかし戦後はアメリカ人の手に渡り、彼はその下で今も執事を続けている。ある日、彼はアメリカ人の主人から、自分が留守にしている間、英国を見て来なさいと旅に出るように勧められる。彼は、自分のいる場所こそ英国であると思っていたが、この申し出を受けることにする。かつて一緒に働いた女性に会いに行きたいと思ったからだ。

 誰にでも老いはやって来る。過去が華々しいほど過去に縛られ、新しい時代に不適応となり、また老いゆえにほのかな恋心も抱いてしまう。しかし不器用な彼はそれらを内に秘めながらなんとか新しい時代に適応しようする。その何とも言えないいじらしさがペーソスを誘う。自分の人生を肯定したくなる素晴らしい読書体験だ。

  (えがみ・ごう=作家)

  *二カ月に一回掲載。

 

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