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【東京エンタメ堂書店】

戦争と文学 サリンジャー生誕100年

 『ライ麦畑でつかまえて』の米国人作家、J・D・サリンジャー(1919〜2010年)は今年、生誕100年。スター作家なのに4冊の本しか出版しなかった人生をたどると、「戦争と文学」を考えさせられます。 (文化部長・増田恵美子)

◆「崖っぷち」の若者たちへ

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 サリンジャーの代表作といえば、1951年の出版以来、世界各国で総発行が6500万部以上といわれるデビュー作『ライ麦畑でつかまえて』。でも、ここでは、このなじみの邦題ではなく、原題から冒頭の「ザ(The)」のみ略した<1>村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社、950円)の題で紹介したいと思います。

 郊外の高校を退学になったホールデンが、クリスマスに地元・ニューヨークに戻ってさまよう物語。最大の魅力は、ホールデンの一人称の洒脱(しゃだつ)な語り口です。社会に反発し、適応できない繊細な若者像を鮮やかに描き出して、米国内で批判と、それ以上に大きな共感を呼びました。

 原題は、ホールデンが「ライ麦畑で遊んでいるうちに崖っぷちから落ちそうになった子どもたちを(助けるために)つかまえる人(=キャッチャー)になりたい」と語ったくだりから。この若者像はその後、国境を越えて一般的なものに。今の日本でも「落ちこぼれたら受け止めてくれる人」がいてくれたら、どんなにいいでしょう。

 ただ、作品の圧倒的な力が、悲劇を招いたことも。80年に起きたジョン・レノンの射殺事件の犯人らが、この小説に影響を受けていたといわれます。

◆各所に「日本」、そのワケは

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 若者ではない読者にも、<2>野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』(新潮社、594円)があります。初めて読んだ時は「『キャッチャー』の作家が、こんなに暗い作品を?」と驚きましたが、その後、これは第2次世界大戦中、欧州の最前線で九死に一生を得た作家による「戦争小説」との解釈を知って、納得。冒頭の「バナナフィッシュにうってつけの日」というとぼけた題の一編から、死と精神的な傷に満ちています。

 日本の読者は、題辞が「禅の公案」であったり、全9編の中に日本に関する記述や日本人らしき人物が登場したりすることに、親近感も覚えるのでは。サリンジャーは戦後、今で言うPTSD(心的外傷後ストレス障害)となって、東洋思想に傾倒し、隠とん生活を送ったとされます。44歳までに計4冊を出した後、91歳で亡くなるまで、米国内では全く出版しませんでした。書き続けていたのにもかかわらず。

◆従軍PTSD、芸術に変換

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 そんな謎に満ちた生涯に迫る本の中でも、2015年に和訳が出版された<3>D・シールズ、S・サレルノ共著『サリンジャー』(角川書店、4536円)が詳しい。特に衝撃的なのが、第2次大戦末期、サリンジャーらの米軍連隊が解放目的で入ったドイツ国内の強制収容所の写真です。26歳のサリンジャーが目の当たりにしたのは、焼死体の山でした。父親はユダヤ人。裕福なニューヨークっ子で才気あふれる作家志望の青年が、その瞬間、変わってしまったとしても、不思議ではないでしょう。この時、『キャッチャー』は執筆途中でした。

 同著は、サリンジャーが戦争で受けた苦痛を一時「不朽の芸術へと変換」したものの、その苦痛から逃れるために求めた宗教(ヴェーダーンタ哲学)によって芸術を失った、と分析。ただし、死後の出版は考えていたとも記しています。本紙も今年2月、遺族らが未発表原稿の出版準備を進めていると報じました。5冊目を読める日を静かに待ちたいと思います。

 

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