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【書評】

なぜ今、仏教なのか ロバート・ライト著

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◆自己解放の体験、簡明に

[評者]立川武蔵(国立民族学博物館名誉教授)

 仏教にかんする書は難しく読みにくいとよくいわれる。難解な多くの術語が用いられるうえに、多岐に分かれた仏教の宗派や教義の中で、著者の立場が明確にされないままに叙述が進んでいくことが多いからだろう。

 本書は仏教の術語によって論を進めるのではなく、それを用いる場合でもその都度、簡明な説明がある。著者の立場も明白だ。著者は自分の立場について「基本的な仏教の区分は、上座部(じょうざぶ)仏教と大乗仏教だ。私の瞑想(めいそう)の流派は、上座部仏教の流れをくむヴィパッサナー瞑想だ」と述べる。

 瞑想(禅定、ヨーガ)にあっては、精神を集中するために選んだ対象を心に止める段階と、その対象を奥深く洞察していく段階という二段階(あるいは方法)がある。

 この二つは中国、日本、チベット仏教などでは止観(しかん)と呼ばれ、「止(サマタ)」の次の段階として「観(ヴィパッサナー)」があると考えられてきた。一方、近年の東南アジアの仏教では、止と観とは並列、あるいは相対するものとして考えられることが多い。

 著者は自身のヴィパッサナー体験を通じて、五蘊(ごうん)(心身という世界の五構成要素)それぞれにおいて我(永久不変の実体)がないという一連の観想の後にこそ、「自己という考えを手放したあとの<自分>−浄化された意識のようなもの−」が感じられるという。

 一般に仏教は無我説といわれるが、執着を「捨てたのちに解放される自分」をブッダは説いたというこの指摘は重要だ。解放された自分があるからこそ、ブッダは弟子たちに「サイの角のごとくひとりであゆめ」と教えたのだ。

 「解放された自分」は大乗仏教の問題でもあった。大乗仏教の祖・龍樹(りゅうじゅ)は主著『中論』の中で、空性には人を空性に導く働きと世界を蘇(よみがえ)らせる働きの二つがあるという。前者は我を否定する働きであり、後者は新しい我の誕生を告げている。

 本書は自分のことばによって、現代という田に仏教の伝統を新しく植えつけている。

 (熊谷淳子訳、早川書房・1944円)

 米国の科学ジャーナリスト。著書『モラル・アニマル』など。

◆もう1冊

池田魯參(ろさん)著『「摩訶止観(まかしかん)」を読む』(春秋社)。瞑想指南の名著を解説。

 

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