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【書評】

一億円のさようなら 白石一文著

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◆絶望から出発 新たに生きる

[評者]池上冬樹(文芸評論家)

 白石一文は抜群のストーリーテラーであり、今回も読み始めたらやめられない。読者に提示する情報の順序を考えぬき、一つ一つの意外な出来事を事件のように作り上げていくからだ。それが物語の駆動力となり、緊張感を高めて最後まで引っ張っていく。

 加能鉄平は長年勤めた医療機器の会社をリストラされ、家族と共に福岡にやってきた。父方の祖父が起こした加能産業に拾われ、将来を期待されたものの後継者の従兄弟(いとこ)に冷遇される。五十二歳になり、長女が長崎の看護学校、長男が鹿児島の歯科大学に入り、パートの妻夏代とまだまだ働かなければならなかった。

 そんなとき鉄平は驚きの事実を知る。三十年前、夏代は伯母の巨額の遺産を相続して手つかずのまま残していた。結婚生活二十年、金がないゆえに母や子に辛(つら)い思いをさせてきたのに、なぜ妻は遺産の話を隠していたのか。

 遺産の発覚と内実も興味をひくが、それと同じくらいに妻と子供たちの秘密も衝撃的で、鉄平は激しく動揺する。会社内での政治的対立、一族の葛藤なども表面化して、鉄平は不信感を強め、福岡から遠ざかる決意を固める。

 白石一文の小説なので、ここでも生きるとは何かが問われる。白石一文というとスピリチュアルな題材が目立つが、本書では全くなく、経済小説的な側面(いかにして未知の金沢で飲食店を成功に導くのか)を詳(つまび)らかにしながら、人との出会いの不思議さ、絶望から出発する新たな生の選択をしかと捉えていく。

 物語的には、人物に遺産というアドバンテージがあり、読者としては難問を解決する切り札として機能するのではないかと考えてしまうが、作者は、人生がもつ皮肉で残酷で不可思議な要素に変えて、様々な局面の人生考察のひとつの手段にしている。金銭よりも自分の心の奥底にある思いや欲望に忠実であること、それこそが生きる原動力になる真実を静かに打ち出す。幕切れがやや好都合すぎるが、それでも五百四十一ページ、一気読みの面白さに満ちている。

(徳間書店・2052円)

 1958年生まれ。作家。著書『ほかならぬ人へ』『記憶の渚にて』など。

◆もう1冊 

白石一文著『一瞬の光』(角川文庫)。愛とは何かを問うデビュー作。

 

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