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【書評】

看取(みと)りの人生−後藤新平の「自治三訣(さんけつ)」を生きて 内山章子(あやこ)著

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◆家族の介護 運命と受け入れて

[評]澤地久枝(作家)

 「看取り」とは、いまの言葉でいえば「介護」だ。著者は後藤新平の娘愛子を母に、政治家であり『母』など戦前の大ベストセラーを書いた鶴見祐輔を父に、四人きょうだいの三人目として生まれた。

 姉鶴見和子と十歳、兄俊輔と六歳ちがい、姉兄が大正生まれであるのに対し、著者と弟は昭和に生まれ、その時代を生きた。

 この人が看取った家族は息がつまるほど多い。すべてを運命のように受け入れて、最善の看取りをした。自身、夫と一人息子を喪(うしな)う人生である。

 後藤新平の自治三訣は「人のお世話にならぬよう/人のお世話をするよう/そしてむくいを求めぬよう」であり、母から懇々と言いきかされる。姉と兄の生前にはこわくて書けなかったというが、今年の鶴見和子生誕百年の山百合忌にあわせて書かれたこの本は、ひかえめながらみごとで、何度読み返しても新しい発見のある最近まれな一冊であった。

 この人は、昭和二十年春、母が脳出血で倒れたとき、父の言うまま学校をやめ、空襲下の東京を離れて軽井沢の別荘へ行く。生まれてはじめての掃除、料理、毎朝の御清拭(せいしき)にはじまる看取りの日になる。当時、疎開してくる親族も多く、十七人になった。家族の面倒をみるのは一家の長男であり、その嫁だった。絶対安静の長男の嫁・母に娘がかわる。食糧は乏しい。下肥(しもごえ)を作り、野菜を作り、野の草も教えられて食べる。「人知れず涙を流した」と書いている。戦争下、十六歳の身に生きることはどれだけ辛(つら)かっただろうか。

 逝く人がじつに誠実であり、言葉を失っても看取る人への感謝をそれなりに表現することに心をゆさぶられた。

 本人は書いていないが、七十五歳で京都造形芸術大学通信教育部に学び、和子を看取る間休学し、八年かけて卒業している。兄俊輔の思い出に、楽しみは乗馬とあり、自慢の乗馬服を着て疾駆し、夕方、馬をつれて近くの川へ行き、体を洗ってやるのが好きだったとある。

(藤原書店・1944円)

1928年生まれ。俳句結社「玉藻」同人。私家版の編著書『鶴見和子病床日誌』など。

◆もう1冊 

後藤新平研究会編『一に人 二に人 三に人』(藤原書店)

 

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