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【書評】

始まりの知−ファノンの臨床 冨山一郎著

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◆言葉に何を期待すべきか

[評]田仲康博(国際基督教大教授)

 本書は、アラブ人に間違われ、警官の尋問を受けたフランスの思想家フランツ・ファノンの経験をひいて、そこで作動した暴力についての考察から議論を開始する。身体と身振りによってカテゴリー化され、異議申し立ての声が無視される暴力的な場面において、言葉は徹底して無力なものとなる。その結果、「話しているのに話しているとはみなされず、抗議の声も放置されたまま消えていき」、あきらめが広がることで「言葉が停止する」状況が広がる。著者は、そうした言葉の状況を「尋問空間」とよぶ。

 著者の指摘で決定的に重要なことは、権力による弾圧の対象となるのが発話の内容ではなく、発話という身体行為そのものであることだ。権力は、言葉本来の意味で「聞く耳」をもたない。「なにをしても無駄」だと思わせる尋問空間においては、圧倒的な受動性が状況を支配していく。

 逆説的だが、言葉が停止する尋問空間は、饒舌(じょうぜつ)な言葉が横行する場でもある。昨今のマスコミやアカデミズムが吐き続ける空疎な言葉は、ある一定のラインを越えて批判しないという大前提を共有するところから生み出される。

 ライン自体が尋問によって設定されていることに無自覚な言説がいかに多いことか。そこにおいては、「知る行為が、知るべき対象を対象として固定化し外在化して」しまう。それは「知る」という行為の対極に置かれるべき所作であると言えるだろう。

 では、わたしたちは言葉になにを期待すればいいのだろうか。著者は、暴力を先取りし、払いのける営みとしての「予感する」や、別の現実の始まりを見る力としての「身構える」という言葉に希望を託す。それは哲学者ランシエールがいう「場所の運命を変えるような活動」につながる。著者は未来を見すえている。

 圧倒的な受動性が支配する状況におかれると、世界は自然なものとして見えてしまう。しかし、著者が鋭く指摘するように、世界は暫定的なものなのだ。ファノンがつねに臨床の場にあり続けたことの意味はそこにある。

(法政大学出版局・3240円)

1957年生まれ。同志社大教授。著書『暴力の予感』『流着の思想』など。

◆もう1冊 

海老坂武著『フランツ・ファノン』(みすず書房)。その思想全体に迫る。

 

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