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【書評】

この道 古井由吉(よしきち)著

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◆生の不思議 五感でしみじみと

[評]池上冬樹(文芸評論家)

 季節の変化や推移を息の長い文章で精妙に綴(つづ)り、ゆくりなく浮かび上がる記憶やイメージを辿(たど)りながら、それまで気づかなかった風景や想念を読者の脳裏にやきつける。

 たとえば、「梅雨のおとずれ」では前半、戦病死した叔父との最後の日々が回想される。一人称の「私」の合間に「子供は」という三人称の視点をもうけて、子供時代のあれこれが生々しく振り返られるのだが(読者によっては福永武彦の『幼年』を思い出すだろう。福永の場合は一人称の文章に句点を打たずに、改行して三人称に移行するが)、その自由自在に過去と現在を往復するのが心地よい。

 後半ではさらに少年時代に腹膜炎で入院した顛末(てんまつ)が痛々しい身体感覚を駆使して捉えられ、老境に入った作者の心身の不調、おこりえるかもしれない予兆なき死や震災の恐れなどと結びつけられる。

 という紹介はいささか簡略しすぎか。実際はもっと混沌(こんとん)としている。語られるべきストーリーはなく、目にしたイメージや喚起された記憶がさらなるイメージや記憶を生み出して、生きてあることの不思議を五感を通してしみじみと感得させるからである。

 ここには八篇収録されているけれど、「梅雨のおとずれ」の一年後に書かれた、同じく梅雨を扱った「雨の果てから」ではもっと融通無碍(ゆうずうむげ)。烏(からす)の騒ぎ声からはじまり、戦時中の空襲が想起され、ハドリアヌス帝の末期の詩に移り、卯(う)の花が語られて戦時中の卯の花とオカラの話になり、飢餓と現代人の飽食の対比が舌でなされ、梅雨の話になって“梅雨は足の裏から来る”と続き、最後は、生と死の感覚のあわいへともっていく。

 このように日々の暮らしの時間の堆積を、己(おの)が肉体と精神の感触でひとつずつ確かめていく。とりたてて何かがあるわけではなく、ひとつづきの事柄が思い出されていくうちに、日々の残像が積み重なり、それが読者の感覚にもなる。幽玄に遊ぶ古井由吉の文章は、読者の感覚をからめとり、感受性の奥深さ(それは生き方の奥深さでもある)を教えてくれるのである。

(講談社・2052円)

1937年生まれ。作家。著書『仮往生伝試文』『ゆらぐ玉の緒(お)』など。

◆もう1冊

古井由吉著『楽天の日々』(キノブックス)。百余篇を収めるエッセー集。

 

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