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【書評】

渦 妹背山婦女庭訓魂結(いもせやまおんなていきんたまむす)び 大島真寿美(ますみ)著

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◆浄瑠璃作者 虚実混淆の人生

[評]豊崎由美(書評家)

 江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂は道頓堀(どうとんぼり)で、人形浄瑠璃の魅力に取り憑(つ)かれた一人の男がいた。近松(ちかまつ)は近松でも門左衛門(もんざえもん)にはあらず、近松半二(はんじ)。大島真寿美の『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』は、浄瑠璃作者として生き抜いた男の生涯を、虚実混淆(こんこう)の渦の中に描き、読んで無類に面白い小説になっている。

 幼い頃から父に連れられ芝居小屋に日参。やがて近松半二と名乗り、竹本座でお抱え作者の道に進むものの、なかなか芽が出ない。年少の親友にしてライバルの並木正三(しょうざ)にも先を越され、人形遣い名人・吉田文三郎から厳しいダメ出しをくらいながらの長い修業時代。そんな半二が「奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)」でようやく立作者になり、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」といった代表作をものしていく成長の道のりを、正三や文三郎、両親、妻のお佐久、竹本座の人々との上質な人情噺(ばなし)のごときエピソードを絡めながら、作者は、大阪弁のリズムの緩急を活(い)かした表現力豊かな語り口で描いていく。

 とりわけ読みごたえがあるのが、「妹背山婦女庭訓」が生まれた経緯を記したくだりだ。自分の兄の許嫁(いいなずけ)だったものの、破談の憂き目にあった幼なじみ・お末の死を知り、意気消沈する半二のもとに降りてきた「お三輪」というキャラクター。<親やら目上の者らに従わされ、己のせつない心をのみこんで引き下がるしかなかったおなごらの、行き場のないまま葬られた悔しい思い>の化身ともいうべき登場人物を得た芝居は大当たりし、歌舞伎に客を取られ傾きかけていた竹本座は息を吹き返す。

 このくだりは、物語はどこからやってくるのか、さまざまな人間の思いや感情が渾然(こんぜん)となった“渦”から言葉を引きずり出してくるのが作者と呼ばれる者なのかといった、創作論にもなっていて深い。大島真寿美のもとにも、いつか、ふいに近松半二が降りてきたのだろう。そう思えるほど、この小説の中の半二は生きている。これは大島にとっての「妹背山婦女庭訓」にちがいない。代表作と呼べる素晴らしい作品にちがいない。

(文芸春秋・1998円)

1962年、愛知県生まれ。小説家。著書『ピエタ』『あなたの本当の人生は』など。

◆もう1冊 

ドナルド・キーン著『日本文学史−近世篇二』(中公文庫)。徳岡孝夫訳。

 

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