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【書評】

モスクワの伯爵 エイモア・トールズ著

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◆恐怖政治下、朗らかな物語

[評]沼野恭子(東京外国語大大学院教授)

 ロシア革命後の混乱の中、かろうじて銃殺刑を免れて幽閉処分となり、スターリン時代を生きのび、三十二年もの間ホテルに軟禁されていた元貴族の物語――そう紹介したら、さぞ残酷で重苦しい小説と思われてしまいそうだが、それはまったく当たらない。本書は機知とユーモアに富む優雅で「朗(ほが)らかな」エンターテインメントである。

 そもそも幽閉とはいえ、モスクワ随一の豪奢(ごうしゃ)なホテル・メトロポールの中にさえいれば何をしても構わなかったので、主人公のロストフ伯爵は、旧友と会い、有名女優と恋をし、アメリカ人外交官と親交を結び、愛娘(まなむすめ)をピアニストに育てあげることができた。高級西洋料理やワインの良し悪(あ)しを知り尽くしている伯爵は、自分自身もホテル内のレストランで食事をすれば、洗練された給仕長としても采配を振るう。なんとも上品で知的でチャーミングな「紳士」でい続けられたのである。

 たしかに、スターリンの恐怖時代にそんなことが可能だったはずがない、と言えばそのとおりだが、本書は、歴史的な現実を背景にしてはいても、作家の想像力で自由に作りあげられたおとぎ話なのだ(さらに結末は映画『カサブランカ』まがいのサスペンス・タッチになっている)。

 作者のエイモア・トールズは、若い頃ロシア文学を読みふけったというだけあって造詣が深く、全編のあちこちでロシア文学の作家や作品に言及している。中でも、ロシアが西洋に貢献したものとして伯爵がチェーホフとトルストイのふたりを挙げ「小説界のアルファとオメガ」だと言っているのが興味深い。ちなみに、ロストフ伯爵とは、トルストイの『戦争と平和』の登場人物と同じ名字である。

 だから本書が、チェーホフのように軽妙洒脱(しゃだつ)で、かつトルストイのようにたっぷりとしたディテールの描写に優れているのも頷(うなず)ける。娘がパリに発(た)つとき伯爵が愛読書モンテーニュから引用して、「叡智(えいち)のしるしである朗らかさ」を忘れないよう助言するのもまた、いかにも本書に似つかわしいと言えよう。

 1964年、米国生まれ。投資家の後に作家に。2016年刊行の本作は30以上の言語で出版されている。

 (宇佐川晶子訳、早川書房・3888円)

◆もう1冊 

 沼野恭子著『ロシア文学の食卓』(NHKブックス)。食を通した文学鑑賞。

 

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