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【書評】

円谷幸吉(つぶらや・こうきち) 命の手紙 松下茂典著

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◆悲劇生んだ苦悩 明らかに

[評]澤宮優(さわみや・ゆう)(ノンフィクション作家)

 一九六四年の東京五輪で思い浮かぶのは、マラソンで円谷幸吉が二位でゴールの国立競技場に入ったあと、トラックで英国のヒートリーに抜かれる場面である。銅メダルは快挙なのか、悲劇なのか。自殺した円谷について多くの作品が書かれているが、盲点があった。それは円谷の肉声が乏しい点である。そのため様々な臆測が乱れ飛んだ。

 ところが、数年前に円谷の親族の家で、彼の大量の手紙が発見された。これらをもとに、円谷の新しい真実を明らかにしたのが本書である。円谷は入浴の際、脱いだ衣類を横に広げて皺(しわ)を伸ばし、四つに折り畳むのが習慣になっていた。そのように律儀(りちぎ)な彼の姿も知ることができる。

 国威発揚のための五輪と考え、結婚の話に横やりを入れて重圧を与えた上司。婚約は破談。そんな中でスランプに陥り、故障に悩む本人。これらの詳細が手紙で明らかになる。それは戦争時、犠牲になった兵隊の姿を思わせる。

 円谷は、兄の敏雄にこう吐露した。<各方面からの期待はありましても、一線クラスとしてこれ以上続けるのは無理であります。(中略)弱音でもなんでもありません>

 彼が自殺する前年の手紙では「拝」の字が乱れている。苦悩する精神の現れだ。気づいたのは著者である。掲載写真には、天真爛漫(てんしんらんまん)な彼の笑顔もある。本来は愛嬌(あいきょう)のある青年だった。そんな彼を追い詰めた大きな力とは何か、改めて思わざるをえない。

 そしてストーリーは予期せぬ展開を見せる。円谷没後、彼と結婚を約束したという謎の女性が現れる。かつて破談になった女性への取材では、彼女は何を語ったのか。

 浮き彫りになるのは円谷の孤独である。五輪で選手は国家を背負わざるを得ない。国民も無責任な期待で彼等(ら)に重荷を与え、その後の人生も翻弄(ほんろう)される。そこから本書のような悲劇が生まれる。

 来年の東京五輪を前に、スポーツは本来どうあるべきかが問われている。それを円谷の手紙から教えられている。「命の手紙」とは、そんな彼の祈りではなかったか。

(文芸春秋・1540円)

1954年、石川県生まれ。ノンフィクションライター。著書『新説・ON物語』など。

◆もう1冊 

浜田幸絵(さちえ)著『<東京オリンピック>の誕生』(吉川弘文館)

 

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