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【書評】

宮沢賢治 デクノボーの叡知(えいち) 今福龍太著

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◆「愚かさ」の中にある共感の力

[評]吉田文憲(詩人)

 デクノボーとは、木偶(でく)の坊と書く。木の人形のこと、ときに使えないもの、役立たずのもののことをいう。だが、宮沢賢治は、このデクノボーを我が分身、「カウイフ/モノニナリタイ」という自らの願望、のみならず、近代的、個人的立場をこえた「ワレワレ」みんなの願望である、とした。それを本書は、「人間と野生とのあいだに成り立っていた《共感/共苦》の関係にたいする想像力をいまにつなぎとめる、とても大切な叡智である」とする。

 たとえば「虔十(けんじゅう)公園林」という童話。この「虔十」はあきらかに詩「雨ニモマケズ」のデクノボー像へつながる人物である。作品の冒頭に「虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜(もり)の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした」とある。むろん、虔十には、「かくありたい」という賢治をもじった自己像が投影されている。

 思えば、賢治は童話を通じて、この虔十のような、多くのデクノボー的存在を造形した。「よだかの星」のよだか、「気のいい火山弾」のベゴ石、「祭の晩」の山男、「猫の事務所」のかま猫など。それを本書の著者、今福氏は「愚かさ」そのもののなかにこそ守られている或(あ)る資質としての「智慧(ちえ)」であり、「知性というものを本質的に謙虚で慎(つつ)ましいものとしてとらえる一つの倫理意識の表明」であるとする。

 そこには、生涯修羅と格闘し、それに打ちひしがれつつ、そのなかにほんとうに小さな、「誰のものでもない希望」の種火を発見した、慎ましい見者としての賢治の姿がある、ともいう。

 デクノボーと修羅。それは賢治の自己の内なる二つの姿である。修羅との絶えざる壮絶な格闘、その内面の劇の帰結点が賢治のデクノボー像でもある。本書はそこに「ともに悦(よろこ)びともに苦しむ共感の知」「賢治とともに私たちが希求すべき世界の可能性」を見いだそうとしている。従来の賢治研究者とは違った、文化人類学的な視点からデクノボー像に新しい光を当てる好著である。

(新潮選書 ・ 1760円)

1955年生まれ。文化人類学者。著書『群島−世界論』『書物変身譚(たん)』など。

◆もう1冊 

宮沢賢治著『新編 風の又三郎』(新潮文庫)。「虔十公園林」など16篇の童話集。

 

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