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【千葉】

二・二六指揮 安藤大尉の遺品 長年の行き違い超え、貫太郎ゆかりの野田市へ寄贈

野田市に寄贈された安藤輝三の遺品=いずれも野田市で

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 第二次世界大戦勃発前、軍部が台頭する中で起こった二・二六事件。当時、侍従長を務めていた野田市ゆかりの鈴木貫太郎(一八六八〜一九四八年)を襲撃、重傷を負わせた部隊を指揮した旧日本陸軍大尉の安藤輝三(一九〇五〜三六年)の遺品が同市に寄贈された。輝三の次男の日出雄さん(83)ら関係者が同市を訪れ、戦後も続いた長年の行き違いを超え、市側に引き渡した。 (林容史)

 貫太郎は、関宿藩の飛び地だった和泉国(堺市)で生まれ、小学校時代を関宿(現野田市)で送った。日清、日露戦争に従軍し、連合艦隊司令長官、軍令部長を歴任して侍従長に就任。一九四五年四月に首相に就任、ポツダム宣言受諾を決定し、大戦の終末を見届けた。

 寄贈されたのは、輝三の軍服、外套(がいとう)、軍刀に加え愛用の眼鏡、愛煙したたばこなど二十点。これらの遺品は野田市内の鈴木貫太郎記念館で調査、研究後、二〇二一年に展示する予定。

 日出雄さんは、母の房さんから引き継ぎ、静岡市の自宅に眠っていた遺品の散逸を心配。輝三が通った栃木県の旧制宇都宮中学の後輩に当たる輝三の研究家の佐川仁一さん(66)に寄贈先について相談した。

 佐川さんは、襲撃した相手の貫太郎が自著で輝三について好意的なコメントを残していたことから、ちゅうちょしながらも昨年、野田市側に寄贈を打診した。市は貫太郎の子孫に意向を確認、「二・二六は立場の違いから発生したものと認識している」と理解を得て受け入れを決めた。

 同市役所で実施された寄贈式で日出雄さんは「父と鈴木貫太郎閣下は、ある時期、相反する立場にあった。いい意味で事件が風化し、父の圧力から逃れるためにも、残る品物を全て閣下の記念館に納めることができてうれしい」と喜んだ。また、「世界平和のためという閣下の思いは、全ての国民に通じる」と貫太郎をたたえた。

 鈴木有市長は「大切な資料を維持し、残してこられるにはさまざまな苦労があったと拝察する。貴重な歴史資料の重みを受け止め、後世にしっかり伝えていくために保存、研究し展示などで活用していく」と感謝を述べた。

 二・二六事件の直前に生まれた日出雄さんに、輝三の記憶はほとんどない。戦後、房さんも輝三について一切、語らなかったという。

 日出雄さんは「寄贈は全く無理だと思っていた。こういうことがあった、と記録に残してもらえれば」と話していた。

<二・二六事件> 陸軍皇道派青年将校を中心とするクーデター。1936年2月26日未明、約1400人の兵を率いて首相官邸や警視庁などを襲撃、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害するなどした。東京市に戒厳令が公布され、海軍や昭和天皇の意向を受け、陸軍が反乱軍として鎮圧に乗り出した。鎮圧まで4日間を要した。鈴木貫太郎の妻タカの証言によると、貫太郎にとどめを刺そうとした兵を安藤輝三が押しとどめて敬礼し、名乗って官邸を立ち去ったという。

鈴木有市長(左)に寄贈品の目録を手渡す安藤日出雄さん

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