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【千葉】

陸上にかけた熱い思い語る ヘルシンキ、メルボルン五輪出場 千葉市の田島政次さん(90)

1964年の東京五輪への出場を要請するため、東京大会組織委員会(当時)が各国オリンピック委員会に送付した書簡を手にする田島さん=千葉市で

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 「何が何でもオリンピックに出場する」。小学生時代に芽生えた思いを持ち続け、六十七年前のヘルシンキ五輪(フィンランド)と、六十三年前のメルボルン五輪(オーストラリア)の二大会出場を果たした田島政次(まさじ)さん(90)=千葉市花見川区。「多くを犠牲にしても、必死に打ち込んで努力すれば、必ず報われると思っていた」と陸上選手時代を振り返る。二〇二〇年東京五輪開幕まで、二十四日であと一年。 (保母哲)

◆少年期の決意

 佐賀市出身の田島さんは小学生時代、五輪の記録映画を見て決心した。「将来、オリンピックに出て、一番高い所に日の丸を揚げる選手になりたい」。高校生時代から本格的に陸上に励み、中央大に進学。練習熱心で、コーチにも恵まれ記録を伸ばした。

 ライバル選手が早朝五時から練習していると聞くと、四時半から練習を開始。夏休み中に同僚選手は帰省したが、一人だけ合宿所に残り、汗まみれになった。つらい練習を支えたのは、「人一倍練習して、オリンピックに出る」との思い。その姿を見ていた近所の男性が「なぜ、そこまで頑張るのか」と声を掛けてきたという。

 一九五一年にインドで開かれた「第一回アジア大会」では、走り幅跳びで優勝、四百メートルリレーで2位。第二次大戦後の当時の日本は連合国の統治下にあったため、インドへの渡航は「出国」にあたるとして、パスポートには連合国軍最高司令官であるダグラス・マッカーサーの許可状が記されていた。

ヘルシンキ五輪で、走り幅跳びに出場した田島さん(いずれも本人提供)

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◆影落とす戦争

 大戦による五輪中断や、敗戦国で参加が認められなかった四八年のロンドン五輪を経て、五二年に開催されたヘルシンキ五輪。日本の夏季五輪参加は、ベルリン大会以来十六年ぶり。田島さんは日本代表選手に選ばれた。

 現地入り前、故郷・佐賀市に一時帰省し、東京に戻る際は、母校の小学校の全児童が駅で「頑張れ」と日の丸を振って見送ってくれたのを、今でも鮮明に覚えている。

 「三位以内の入賞を狙っていた」ものの、会場は北欧と遠距離なため現地入りまで四日ほどかかり、選手村の食事は苦手な羊肉など洋食ばかり。体調を崩し、走り幅跳びは10位、百メートルは11秒1で予選落ちだった。

 戦時体制下では陸上競技に打ち込むことができず、ヘルシンキ五輪の出場まで「外国人選手の姿もほとんど見たことがなかった」。時代に振り回されたことがうかがわれる。

 陸上選手を引退したものの、五六年のメルボルン五輪に出場することになり、走り幅跳びで予選落ちした。その後、日本オリンピック委員会(JOC)で広報を担当するなどした。

 「オリンピックは、他の大会とは全く別物。選手は国を背負うだけでなく、オリンピックで優勝してこそナンバーワンだと思っている」

 六八年のメキシコ大会をはじめ、五輪では何度も現地に赴いて日本人選手を応援し、六四年の東京五輪ではJOCの職員として会場で観戦した。

 来年の東京五輪は自宅でのテレビ観戦となる見込み。「楽しみにしています」と笑顔で語ったのに続けて、「知り合いには『もう一回、東京オリンピックを見るまで死ねない』と言っているから」。

ヘルシンキ五輪に出場した日本人選手・役員と、記念撮影に納まる田島さん(後列左から3人目)

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