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【千葉】

<つなぐ 戦後74年>聞こえぬ警報、空襲の恐怖 聴覚障害の戦争語り部・樗沢加津人さん

戦時中の暮らしを振り返る樗沢(ぶなさわ)加津人さん=千葉市内で

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 「空襲警報が聞こえないから、発令時に出張所に掲げられる旗が頼りだった」。聴覚障害がある佐倉市の樗沢(ぶなざわ)加津人さん(82)は戦時中、音が聞こえない中を米軍機の空襲から逃げ惑った。戦後は障害への差別に直面。「生きることで精いっぱいだった時代を知ってほしい」と、恐怖や苦難の体験を子どもたちに語り継いでいる。 (太田理英子)

 山口県宇部市で八人きょうだいの末っ子として生まれた樗沢さん。三歳のころに高熱を出して耳が聞こえなくなった。太平洋戦争が開戦したのは四歳の時だった。

 空襲警報が頻繁に鳴るようになり、近所の市役所出張所には、警報発令中に赤旗、解除時は白旗が掲げられるようになった。

 ある日、空腹に耐えかね、聴覚障害がある友人と貝を採りに出掛けた。出張所の旗を見ると、白。安心して海岸に向かい、夢中で貝を探していると、いつのまにか周りに友人以外誰もいないことに気付いた。突然、体に太鼓をたたくような強い震動が響き始めた。

 顔を上げると、数十メートル先に停留中の船の周りを、四機の小型機が旋回していた。操縦席にサングラスをかけた外国人の顔が見え、青ざめた。「敵機だ!」。海面に水柱が上がった。必死で岸壁をよじ登って逃げ、振り返りもせずに防空壕(ごう)へと駆け込んだ。初めて、死の恐怖を体感した。

 一九四二年には、広島県大朝町(現北広島町)に家族と疎開。空襲の恐怖は遠ざかったが、四五年八月六日朝、畑仕事をしていると、爆発音に気づいた姉が驚いた様子で広島市の方面を指した。遠くの山々の間に、きのこのような形の雲が浮かんでいた。「空襲かな」。無音の中、雲の下の惨状を知るよしもなかった。

 自宅にはラジオがなく、家族がいつ終戦を知ったのかは分からない。樗沢さん自身は、出征した長兄が弁当箱だけを手に戻ってきた秋、初めて戦争が終わったのだと気づいた。

 家族で宇部市へ戻る道中、広島市内に降り立ち、がくぜんとした。電柱も家屋もすべて倒れ、焼け尽くされて皮膚や髪が燃えたような強烈な異臭が漂っていた。多くの命が奪われたことは一目瞭然だった。

 四六年に宇部市のろう学校に進学。自立しようと十八歳で靴職人の見習いを始め、地元や新潟県の靴店で働いたが、どんなに働いても無給。耳が聞こえないことをばかにされ、差別と偏見に悔しさが募った。ようやく生計が立てられるようになったのは、二十五歳で東京に移ってからだった。

 その後、千葉県に移り、約十年前から、県内外の小学校で自身の戦争体験を語るようになった。人々の意識が変わったように感じたからだ。「平和が当たり前になり、大切さに疎くなっている気がしている。戦争の苦しさを伝え、平和への思いを引き継いでもらいたいんです」

 

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