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【千葉】

「幻の青函連絡船」伝えたい 太平洋戦争末期、勝浦沖で座礁 乗組員OBら研究進める

勝浦市から提供された第九青函丸船影の写真=出典「青函連絡船60年のあゆみ」(1968年、青函船舶鉄道管理局)

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 太平洋戦争末期、津軽海峡への就航目前、勝浦沖で座礁、沈没した青函連絡船「第九青函丸」の研究が近年、青函連絡船の乗組員OBでつくる「青函連絡船史料研究会」の手で進められている。戦局悪化に伴い、安全性を落としてまで建造した結果、海の藻屑(もくず)となった悲劇の船。OBらは「津軽海峡を見ずに沈んだ青函連絡船のことを忘れないでほしい」と願う。 (山田雄一郎)

 第九青函丸は、戦時中、北海道−本州の鉄道輸送のため、津軽海峡を往復する青函連絡船の増便が必要となり、一九四五年二月十五日、神奈川・浦賀で完成。同二十七日、函館へ向け横浜港を出て、護衛の海防艦「四阪(しさか)」が先導し、房総半島南端を北上する最中に「関東の鬼ケ島」と呼ばれる勝浦沖の暗礁に乗り上げ、沈没した。当時の勝浦町民らが遭難者の救助を行ったが、百四十人の乗組員中、十三人が酷寒の海で死亡した。

 米軍の潜水艦による攻撃で日本の船が次々と沈められる中、「戦時標準船」として量産を急ぐあまり、船体の二重底をやめて単底化したり、鉄板の品質を落としたりした設計が沈没を招いたとされる。

 終戦後、当時を知る人は次第に減少。事故に関する資料も少なく、第九青函丸は「幻の連絡船」と呼ばれるように。八八年三月に青函連絡船が廃止されて以降は、さらに記憶の風化が進んだ。

 二〇一二年に結成された青函連絡船史料研究会は、連絡船OBら十人ほどのメンバーで構成され、戦時中の連絡船の研究に乗りだし、各地で講演。第九青函丸については、メンバーの西沢弘二さん(79)=千葉市緑区=が「地元千葉の海で起きた事故。後世にしっかり伝えたい」と中心となって調査している。勝浦市に関連資料がないか問い合わせたことがきっかけで、地元の古老に沈没当時の状況を聞き取ることができた。

 勝浦市との関係も深まり、八月十七日には同市役所で、青函連絡船史料研究会メンバー安田栄治さん(69)=埼玉県越谷市=らが招かれた講演会が開かれた。

第九青函丸の悲劇に触れ、平和の大切さを訴える「青函連絡船史料研究会」の安田栄治さん=勝浦市役所で

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 安田さんは「とにかく浮かんで走れば良いという発想で造った。二重底廃止が沈没の大きな原因で、救命艇も二隻しかなかった」とずさんな船造りを批判。四阪についても「何度も無線で救援を頼んだのに、なかなか救助に来なかった。潜水艦の攻撃を恐れたのだろう」と嘆いた。

 講演の最後で、安田さんは「犠牲者を悼み、救助に尽力した勝浦町民の活動を後世に伝え、二度と戦争を繰り返さぬよう願い、第九青函丸遭難碑を建立したい」と結んだ。

<第九青函丸> 全長118メートル、全幅15.8メートル、貨車44両を積める大型船。敵潜水艦を避けるためジグザグ航法を取っていた最中、暗礁にぶつかり沈没した。船の残骸の一部は今も海底に横たわり、漁船の網が引っ掛かることがあるという。この暗礁は1869年、米国汽船ハーマン号を沈没させ、約230人の犠牲者を出したことでも知られる。

 

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