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【千葉】

<東京2020 夢舞台ともに>(1)サーフィンを「文化」に 日本障害者サーフィン協会代表理事・阿出川輝雄さん(76)=いすみ市

「誰もが楽しめるサーフィン文化を根付かせたい」と話す阿出川さん=いすみ市で

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 「五輪の盛り上がりをきっかけに、誰もが楽しめるサーフィン文化を根付かせたい。最高の波があるこの地域からなら、やれる」

 今年夏に開催される東京五輪で競技に初採用されたサーフィンは、一宮町の釣ケ崎海岸が会場となる。一九六〇年代にサーフィン文化を日本に持ち込み、サーフィン界の「レジェンド」とも称される阿出川輝雄(あでがわてるお)さん(76)=いすみ市=は、大会の成功を信じている。

 一九六四年、二十一歳の時に米国カリフォルニア州を訪れ、海岸で多くの人がサーフボードで波に乗って楽しんでいるのを見て衝撃を受けた。「サーフィン文化を日本に輸入しよう」。阿出川さんは現地でサーフボード作りの技術を学び、翌年、東京・神田でサーフボードショップを開いた。

 だが、「当時、日本人の月給が平均約一万円で、サーフボードは一つ約六万円。誰も買わなかった」となかなか浸透しなかった。

 七〇年代になってやっとサーフボードを買う人が増えたという。阿出川さんは、良質な波を求めて七二年にいすみ市に移住。七九年、同市でサーフィンの世界選手権を開催することに尽力した。隣の一宮町でもサーフショップが並び始め、競技人口が増えていった。

 二〇〇四年十月、阿出川さんは脳内出血を患い、右下半身にまひが残った。それでもサーフィンへの情熱は衰えず、競技を続け、一七年夏、ハワイで障害者限定のパラサーフィン大会に出場して光景に感銘を受けた。「ビーチにはずらっと車いすが並び、シェフが障害者に料理をふるまっていたんだよ」

 米国各地でのパラサーフィン大会に出場し、運営方法などノウハウを学んだ。「今度はスポーツを超えた、誰もがサーフィンを楽しめる新しい文化を日本に持ち帰らないと」。一八年には、いすみ市と一宮町にある太東海水浴場で、国内初のパラサーフィン大会を開催した。日本障害者サーフィン協会代表理事でもあり、今後、同海水浴場のバリアフリー化にも携わっていくつもりだ。

2018年のパラサーフィン大会に義足サーファーが出場している時の様子=いすみ市の太東海水浴場で(日本障害者サーフィン協会提供)

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 一宮町では近年、良質な波を求めて全国から移住するサーファーが増え、サーフィンが日常生活の中に根付きつつある。同町立東浪見小学校は全校児童約百五十人のうち、約五十人がサーファー。前川裕幸教頭は「中にはプロを目指し、午前三時から波に乗っている子もいます」。

 釣ケ崎海岸が五輪会場に選ばれ、名実共に「サーフィンの町」として町の知名度は上がっている。五輪を控え、新しい飲食店やホテルが建つなど、大会への機運が高まっている。

 一方で、いまから「五輪後」の町を心配する声も。同町議でサーフィン業組合長の鵜沢清永(うざわきよひさ)さん(44)は「白馬村のような事態は絶対に避けなければならない」と懸念を口にする。

 長野県白馬村は、冬季五輪があった一九九八年当時、約百六十万人いたスキー場利用者数が、二〇一六年には約八十八万人に半減。年間観光者数も五輪当時の約三百二十万人から一六年には約二百五万人に減った。

 「スポーツは、大会が終わると熱が冷めてしまう。でも、文化なら違う」。阿出川さんに焦りはない。「アメリカではサーフィンが理学療法にも使われている。ストレスで疲れた人が、ボードでぷかーと浮かぶだけでいい。文化が根付くとはそういうこと」と語る。 (丸山将吾)

     ◇

 オリンピック・パラリンピックは、出場する選手だけではなく、多くの人にとっても夢の舞台だ。県内で東京五輪・パラに関わる人たちの思いを紹介する。

 

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