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【千葉】

<東京2020 夢舞台ともに>(2)競技も障害も理解を 千葉ボッチャ協会長・宮坂昇さん(71)=市川市

亡き息子の和宏さんが生前に使っていた自作のランプを手にする宮坂昇さん=千葉市稲毛区で

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 「競技だけでなく、障害に対する理解が深まるきっかけになってほしい」

 千葉ボッチャ協会の宮坂昇さん(71)=市川市=は、東京パラリンピックの開催を心待ちにし、亡き息子と一緒に歩んだ日々を思い返している。

 ボッチャは、重度脳性まひや四肢重度機能障害者のために欧州で考案されたスポーツ。目標となる白色の「ジャックボール」への近さを争う競技。二〇一六年のリオデジャネイロ大会で、日本が団体銀メダルを獲得し、注目を浴びた。

 昨年十二月、市川市行徳公民館で開かれたボッチャの体験会。「カーリングは氷上のチェスとも言われるが、ボッチャは『床の上のカーリング』とも言われる奥が深い競技なんですよ」。宮坂さんは、小学生から高齢者まで約二十人の参加者に笑顔で語りかけた。

 自力で投球できない人は「ランプ」と呼ばれる滑り台のような器具を使って投球することもある。宮坂さんはこう話す。「実はうちの亡き息子も、この器具を使ってボッチャを楽しんでいたんです」

 一九七八年二月に生まれた宮坂さんの一人息子、和宏さん(故人)は生後約一年で、筋肉が徐々に衰えていく進行性の難病「筋ジストロフィー」と診断された。

 ボッチャはパラリンピックのソウル大会(八八年)から正式競技に採用されているが、宮坂さんが存在を知ったのは和宏さんが県立船橋特別支援学校高等部に通っていた九〇年代半ば。「当時は全然知られていなかったが、車いすの息子が体験して楽しそうだったのが、印象的だった」と振り返る。

 日本で初めてのボッチャ協会となる「千葉ボッチャ協会」が設立されたのが九五年。翌年には、国内初の大会「第一回千葉ボッチャ選手権大会」が開かれ、宮坂さんもスタッフとして大会を支えた。

 そのころには和宏さんも競技としてボッチャに取り組むように。「可能な限り、悔いのない人生を楽しんでほしかった」と、首を多少動かすことができた和宏さんのために、配管パイプをU字形に切断してつなぎ合わせたランプなどを自作。息子と二人でボッチャにのめり込んだ。「手足が自由に動かなくてもできるスポーツ」と醍醐味(だいごみ)を語る。

 九八年二月に和宏さんが二十歳目前で亡くなった後も、宮坂さんは協会のメンバーとして、大会運営などに尽力。当時は国内で珍しかった千葉ボッチャ選手権大会は、全国各地から出場者が年を追うごとに増えた。

 妻からは「なぜ子どもを思い出すようなことを続けるのか」と言われたが「一緒に続けてきたボッチャを普及するために頑張っている姿を、いつまでも天国から見ていてもらいたい」。だからいまも、各地で普及活動を続けている。

 普及の傍らで、審判資格を取得したり、全国各地の大会で会場の運営スタッフになるなどボッチャを支えてきた。二〇〇一年からは千葉ボッチャ協会会長として県大会を支える。

 「一九九〇年代、『ボッチャって何?』というところからのスタートだった」と宮坂さん。リオ大会での活躍で、今では健常者にも知られるようになった。だが「オリンピック競技と比べ、パラリンピック競技の知名度や関心は、まだまだ発展途上」とも話す。

 パラリンピック東京大会は、八月二十五日に開幕する。宮坂さんは「どの競技も会場がいっぱいになるぐらい、たくさんの人に観戦してもらい、障害者スポーツを応援してくれる人が一人でも増えてほしい」と願っている。 (山口登史)

小学生らにボッチャを教える宮坂さん(中央)=市川市行徳公民館で

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