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【過ぎし楽しき千葉の日々 椎名誠】

潮風流れる小、中学校 風景が怒濤のごとくよみがえる

椎名少年が通った千葉市立幕張中学校=同市花見川区で

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 ぼくが生まれたところは東京の三軒茶屋で六歳のときに幕張に越してきた。世田谷時代の記憶は、断片的ながらところどころが鮮明なわりには前後がまばらなので、夢のようなものだった。

 しかし幕張の記憶は怒濤(どとう)のように強烈で、子供心には東京の住宅地と違って海が広がり、町の背後に低い丘陵のつらなる風景はまったく別世界の魅力に満ちていた。

 ここでは埋め立て地から幕張メッセに変貌していく話を中心に書いていたので「千葉の町」についての話を取り残してしまった。

 東京の町よりも規模が小さなぶん、年齢は一年も違わないのにいきなりその頃の記憶の風景は濃密になる。農業と漁業が混在していて当時は国鉄と呼んでいたJRと私鉄の京成電鉄の駅があったので交通の便はよかった筈(はず)だったが、まだ東京に通う人は少なかったようだ。

 長い貨車を連ねた蒸気機関車が走っていて、子供心にもそのどっしり豪快かつ勇壮な疾走ぶりは怖いながらも魅力的だった。

 ぼくの越した家は繁華街のはずれにあって駅から歩いて十分ぐらいかかった。国鉄と私鉄が一緒になって踏切を越えていかなければならないから時間帯によっては随分長い時間待たされ、大人たちは「あかずの踏切」と呼んでいた。

 踏切番の人が三人ほどいて町の人と顔馴染(なじ)みになっていた。そうしてぼくの母なんかもそうだったが、おばさんというのはいつの時代も「強く」て、踏切が閉まりはじめぐらいのときなど「ちょっと待ってよ。一分で渡るから」などといって通過してしまう。でもおばさんは強いわりにはのったりしているから、一分と言いつつたっぷり三分はかかっていた筈だ。

 その踏切を見下ろすような格好で神社がありその奥に小学校があった。古い学校でそこが開校百年を迎えたのを記憶している。

 砂の校庭を二階建ての校舎が井桁(いげた)のように取り囲み校庭の真ん中に大きな樹がはえていて、その下に全校生徒が集合するようなときに先生が乗ってなにか訓示を言うときに使っていた学校の庭の必需品のような台があった。さらに校舎の中心部あたりに二宮金次郎が薪を背負って本を読んでいるお馴染みの像があった。

 ぼくはその町の中学まで行ったが、ぼくがその町に越してから造成がはじまった新しい校舎で、校庭を造成している頃の風景も覚えているから中学に入学した頃はまだあたらしい校舎だった筈だ。

 校庭のまわりに五十センチぐらいの高さでぐるりと土盛りがしてあり、そこになにかの木が植えられていた。北側のほうには林があり、校舎を建てるときに出た廃材や伐採した木が大きな束になって散在しており「危険だから入ってはいけない」と教師はみんな言っていたけれど、生徒はみんなおかまいなしにそこに入って小便などをしていた。海からの風で時々その林はけっこう大きな音をたてていた。 (作家)

 

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