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【私説・論説室から】

ピアノの音、溶かした心

 子どものころ、泣くのはつらい時だった。叱られ、駄々をこね、周りを困らせただろう。大人になってみると、涙はうれしい時に出る。ピアニスト西村由紀江さんの話を聞きながら、そんなことを考えた。

 家庭に眠るピアノを東北の被災地に贈る活動「スマイルピアノ」の呼び掛け人だ。寄付の申し出は三百台以上。しかし、届けるのは時間がかかった。被災者がなくしたのはピアノだけではないから。

 岩手県陸前高田市の少女は家を失い、仮設住宅にいた。希望はヘッドホンで静かに演奏できる電子ピアノ。「大事にします」。今では夢を叶(かな)え、保育士になった。

 宮城県登米市の女性は、夫と両親を津波に奪われ、遺体が見つからない。あの日、責任感の強い夫は職場に残ったという。「眠れない日が続きました」。流されたピアノは、穏やかな日常の象徴だった。

 この八年で西村さんは五十七台を届けた。即席の演奏会が始まると、聴く人の目に涙が浮かび、嗚咽(おえつ)が漏れる。後悔だろうか。自責の念か。いや、悲しみだけではないはずだ。

 美しい調べ。夢中で奏でる子どもたち−。私たちは生き残った者として、再びピアノを弾こうとする人々の命の尊さに打たれる。「音が、張り詰めた心を溶かすんですね」。こう語る西村さんは、人間と家族の再生に立ち会ったのだと想像する。 (臼井康兆)

 

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