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【土曜訪問】

人生のドラマを撮る デビュー70周年で個展次々 田沼武能さん(写真家)

写真

 米雑誌『ライフ』『タイム』などの契約写真家として世界中を駆け回り、日本写真家協会会長などを歴任した写真家の田沼武能(たけよし)さんが九十歳となり、デビュー七十周年を迎えた。二つの節目が重なった今春、終戦直後から東京五輪開幕までの作品を集めた「東京わが残像 1948−1964」展(世田谷美術館)など、個展が次々と開催されている。

 誕生日の数日後に都内の自宅を訪ねると、つい先日も夜明け前から撮影に出掛けたばかり、と言う。「日の出が撮りたくてね。写真は頭を使って自分が動かないといけないから、ボケないんです」と笑った。

 キャリアの長さだけでなく、幅の広さにも驚かされる。師匠・木村伊兵衛譲りのスナップ写真で名もなき市民の素顔を写したかと思えば、横山大観や柳田国男、三島由紀夫ら一流の芸術家、学者の肖像写真も代表作の一つ。女優黒柳徹子さんの国連児童基金(ユニセフ)親善大使の活動に同行して海外の紛争地に足を運ぶ一方、東京・武蔵野の風景にもこだわり続ける。

 そんな写真家人生の原点に挙げるのが、東京・下町の子どもたちだ。一九四九(昭和二十四)年に「サン・ニュース・フォトス」に入社。暗室作業から始まった修業時代、最初にレンズを向けた被写体だ。

 例えばこんな一枚がある。五五年の東京・佃島で、動くわけでも、音が出るわけでもない紙芝居をじっと見つめる子どもの顔、顔。「こういう真剣な顔をする子どもは、もういなくなっちゃったね」。誰もが貧しく、それでも日々を精いっぱい楽しんでいた。

 下町の子どもを撮影したのは「自分が生まれ育った所だから。どこに行けばどんなやつがいるのか、大体見当が付くと思って」。何げない理由だが、後に「世界の子ども」の撮影がライフワークとなるのは、何か運命的でもある。

 実家は浅草の写真館。カメラは身近だったが、最初から写真家志望ではなかった。「写真館は、お客さんに気に入られる写真を撮らなきゃいけない。それは自分には合わないと思った」

 少年時代は近所の仏師にあこがれ、彫刻家が夢だった。「人間の彫刻がやりたくてね。今も人間に興味があるのは同じですが」。だが父に反対され、次は建築家を目指すも受験に失敗。「腰掛けのつもり」で入った東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)で思い出したのが、実家で読んでいた写真誌『ライフ』。「どうせならフォトジャーナリズムを」と道を決めた。

 同誌を出版する米タイム・ライフ社の契約写真家に抜てきされたのは六五年。前年の東京五輪では同社の『スポーツ・イラストレーテッド』誌の取材班に参加し、変貌する東京の街も記録した。

 二度目の五輪を控えた東京に「コンピューターに合わせて生きるようになった。スピードが上がり、経済は回っているけど、人間は幸せになったのかな」と思う。「子どもの顔におおらかさがなくなった。言うことも優等生で、何だか大人づらになった」。子どもを撮り続けてきた田沼さんの実感だ。

 さまざまな撮影体験から得たのは「人は生まれてから死ぬまで、それぞれがドラマを演じている」という信念だ。「そのドラマの一場面、日常の喜怒哀楽を撮るのが写真ではないでしょうか。これからも人々の生きざまを撮っていきたい」 (谷岡聖史)

 *「東京わが残像 1948−1964」展は4月14日まで、東京都世田谷区の世田谷美術館で。「童心−世界の子ども」展は4月27日まで、中野区の東京工芸大で。「『文學者之墓』の文士たち」展は4月9〜14日、千代田区の文春ギャラリーで。

《紙芝居はいつも次の日の展開が楽しみだ》 1955年、東京都中央区の佃島で

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