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【土曜訪問】

沖縄への思い込めて 第五句集『半寿』を刊行した 栗田やすしさん(俳人)

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 インターネット普及率が一割そこそこだった一九九八年の創刊当初から、ネット句会など先進的な取り組みをした俳誌『伊吹嶺(いぶきね)』。創刊者の俳人、栗田やすしさん(82)は、二〇一七年末で主宰を勇退した。活動に一区切りついた今年、第五句集『半寿』を刊行したが、講演や俳人協会副会長の仕事などで、まだまだ忙しそう。合間を縫って、名古屋市内の自宅を訪ねた。

 軽やかな人だ。この夏も、大会の審査や旅行で国内外を飛び回る。好きな草木を植え、金魚やメダカを育てる庭でカメラを向けられると「最近手入れをする余裕がなくて、いやになっちゃうよ」と困り顔だが、楽しそうに案内してくれる。

 自身は韻律や季語を重視する伝統的な作風だが「これからは時代を先取りしないと、人は来ない」と考えネットに力を入れた。実際に、現在の二代目主宰など、ネット経由で俳誌本体に入会した人は多かった。勇退についてたずねると「常に十年先を考えよと言ってきた自分がこの年で、この先十年を考えられる気がしなかった」。<喜寿はもう他人事(ひとごと)ならず木瓜(ぼけ)咲けり>。師事していた故沢木欣一さんの俳誌『風』から独立して、二十周年の節目での決断だった。

 新句集のタイトル『半寿』は「半」の字を分解した様から、八十一歳を表す。自分への祝意を込め名付けた。前半は〇八〜一八年の三百四十句、後半は長年詠み続けた沖縄戦の句。散り散りに収めていた一九九八年以降の百六十句を初めてまとめた。

 <蜥蜴這(とかげは)ふ砲火に焦げし洞窟(がま)の口><赤土(あかんちゃ)に幾万の霊甘蔗(きび)の花>

 沖縄を詠むことは、もとは沢木さんのライフワークだった。栗田さんは日中戦争直前の旧満州生まれ。陸軍将校だった父が戦死し、二歳で父の故郷だった現在の岐阜市に引き揚げた。自らの句を「底流にあるのは、亡き両親や師たちの追慕と鎮魂」と評する。そのころの記憶はないが、父を慕う気持ちが自然と、戦争を憎む気持ちを植え付けた。

 「戦跡に行くと、気の毒で苦しくなる。当初は沖縄だけの句集にしたいくらいだった」

 大学時代、友人に誘われて俳句を始めた。二十八歳から師事する沢木さん、故細見綾子さん夫妻の教え「即物具象」を固く守る。感動を直接言葉にして語らないのが一番の肝。対象物をよく観察し、写し取った姿と季語に、感情の表現を任せる。たとえば<ふるさとに旅人めきし冬帽子>。「冬でないと気持ちが表現できない」。知る人が誰も残っていない故郷で、自分がよそものになったかのような寂しさがにじむ。

 近代俳句の研究者、栗田靖(きよし)の顔もある。三十二歳で高校教諭を辞め、大学院に進んだ。その後、日本大教授などを務めたが「研究と実作の両輪で、物理的にも視点でもバランスは難しかった」と振り返る。そこをくぐり抜けてきた最近の自身の句を「対象や相手の中に自分を見いだす句になった」とみる。

 戦前期の俳人、河東碧梧桐(へきごとう)の研究では、草分けの存在。俳句を既存の枠にとどまらず、文学や芸術として追求したひたむきな姿勢や革新性にひかれ、六十年こだわってきた。

 碧梧桐は同じ正岡子規の弟子、高浜虚子と双璧をなす存在。ただ後年は定型を崩したりルビを多用したりして前衛的な作風に傾き、評価を失った。伝統を守って全集も刊行された虚子と比べ、存在を無視されているかのような扱いからの復権を願ってきた。若いころは俳壇の評価も高く、実作者としての目で見ても「虚子よりうまい」。ひたすら雑誌や新聞で初出を洗い出し、俳句の総目録を作った。成果をまとめた研究書『河東碧梧桐の基礎的研究』(二〇〇〇年刊)は、俳人協会評論賞を受賞した。

 『半寿』では碧梧桐の命日である寒明忌(かんあけき)を<振り向けば一筋の道寒明忌>と詠んだ。心残りは、前衛的な後期作品の扱い。「訳が分からないし、どう評価するかは難しい」と感じ、評論を後の宿題とした。「(同賞授賞式で)九十歳までに仕上げますって言っちゃったんだよなあ。どうしようね」と、困った笑い顔をみせた。 (松崎晃子)

 

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