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【土曜訪問】

学び続けた到達点 バッハ「無伴奏」を全曲演奏・新録音 前橋汀子(まえはし・ていこ)さん(バイオリニスト)

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 古典中の古典。原点にして極致。そう位置づけるバイオリニストは少なくないだろう。三百年前に作曲されたバッハ「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」全六曲。演奏活動五十七年の前橋汀子さんにとっても「いつも家の譜面台に楽譜が置いてある」作品だった。「長く弾き続けてきたからこそ見えてきたものがある」と今回、二つの大きな試みに挑んだ。

 一つは、全曲演奏会だ。八月下旬、みなとみらいホール(横浜市)で開かれたリサイタル。大ホールのステージに、赤いドレスの前橋さんが独りで立った。次いで冒頭の四重音が奏でられた瞬間、重厚なバッハの世界へと引き込まれる。たった一挺(ちょう)のバイオリンで築かれているとは思えない音の伽藍(がらん)に、聴衆は圧倒されていた。

 休憩を挟み約三時間で「無伴奏」全曲が演奏された。ラストに配されたのは屈指の名曲、パルティータ第二番の「シャコンヌ」。前橋さんが「あらゆる技巧、魅力を網羅し尽くした」と評する難曲を驚くほどの集中力で弾き終えると、満場の拍手が館内を満たした。

 その五日後、東京都内でもう一つの試みである三十年ぶりのアルバム制作について話を聞いた。一九八九年の「無伴奏」全集CDも文化庁芸術作品賞を受けるなど高く評価されている。なぜ、新録音に踏み切ったのか。「もちろん当時の私の全力を尽くした演奏です。でも、この三十年でバロック期のバイオリン奏法を習い、バッハの宗教曲やオルガン曲を勉強し、聴き返してみると未熟さも感じた」

 長くソリストとして、ストコフスキーやメータ、小澤征爾といったマエストロたちと共演してきたが、五年前からカルテットに取り組んでいることも大きな刺激となった。「自分が中心で、自由に弾けたソロとは全然違う。楽譜の見え方、音の感じ方が大きく変わった」。特に「無伴奏」は一つの楽器で旋律と和声の両方を奏でなければならない。「四人で弾く曲を一人で弾いているようなもの。室内楽の経験のおかげで、今まで一つの線で見ていた曲が立体的に見えてきた」

 録音と演奏会に際し「無伴奏」を得意とした恩師のヨーゼフ・シゲティ、ナタン・ミルシテインの両巨匠の演奏を聴き返した。「テンポも解釈も全然違う。でも素晴らしい。演奏者の主張や人格、人間性がむき出しになる曲だと改めて実感した」。その言葉通りの円熟の演奏を自身も披露した。「これまで学んできたことを消化し、自分の言葉で自信を持って語りかけられるようになってきたのかも。今、弾くのがとても面白いんです」

 七十五歳でなお進化を求める向上心に驚かされる。高校を中退し、冷戦下のソ連・レニングラード(現サンクトペテルブルク)音楽院に留学した十七歳の時の旺盛な「学び」の精神が今も生き続けている。その後も米ジュリアード音楽院に留学、さらにスイスに居を構えてシゲティらに師事するなど、世界中を飛び回って学び続ける日々を送ってきた。「学ぶのは大好き。教えてもらえることがあればどこへでも行く。私はバイオリニストとして、決して恵まれた体格でも指でもなかった。だから人より練習するしかない。幸運だったのはすばらしい先生たちに巡り合えたこと。その出会いが私の運命を作ったんです」

 近年はクラシックの裾野を広げようと、求めやすい料金で初夏の「アフタヌーン・コンサート」、秋の「デイライト・コンサート」を自ら企画する。「今はネットなどで音楽を聴くことができる。でも、やはり会場に来て、生の音を聴いてほしい」との思いは強い。「ここまで弾き続けてこられたのは周囲の支えのおかげ。感謝しかありません。一日でも長くステージに立ちたい」 (樋口薫)

     ◇

 「無伴奏」全曲演奏会は十二月二十一日、トッパンホール(東京都文京区)でも開催。CDは二枚組み四千八百六十円で発売中。「デイライト・コンサート」は十月二十九日に東京芸術劇場コンサートホール(東京都豊島区)、十一月三十日に愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋市東区)でそれぞれ開催される。

 

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