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【土曜訪問】

憂鬱なイメージ一蹴 介護中に乳がんになったルポエッセー出版 篠田節子さん(作家)

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 「痛い、痛いってば…。あたしゃホルスタインじゃないよ」

 昨年の冬。クリニックを受診していた直木賞作家の篠田節子さん(63)は苦悶(くもん)していた。乳がん検査に必要な分泌液の採取。厳かな表情のイケメン医師が、両手で右の乳房をがっしとつかみ、力いっぱい搾る。看護師はのんびりと「頑張ってくださいね〜」。

 二十年来の認知症の母の介護と執筆の多忙な日々に、突然降り掛かった乳がん。その闘病と介護を克明にルポした『介護のうしろから「がん」が来た!』(集英社)を今月、出版した。

 さぞかし深刻な話だろうと身構えてページをめくると、何か違う。冒頭の「ホルスタイン」から始まり、病を知った仲間の女性作家に「節子さん、巨乳じゃないよね。どっちかというとヒンだよね…」と言われた話など、抱腹絶倒のエピソードが満載だ。本の帯にも「まさにガーン!」。出版社のウェブサイトで連載中、会う人ごとに「面白いですね!」と言われた。

 「本人はいたってまじめに淡々と書いたんですが、商売柄つい筆がすべって…」。すらりとした長身に、米国製のアンティークのワンピース。ざっくばらんな筆致と裏腹に、篠田さんを目前に思い浮かぶのは、「端正」という言葉だ。

 「乳がんになってみたら、想像と全然違ったんですよ」。以前、小説『スターバト・マーテル』で、乳がんの女性を描いた。再発と死を予感し、好きな男性と逃避行する。「この主人公のようにむやみに悲観的になる前に、私の個人的体験ではあるけれど、現在の治療や手術を克明に記録して、知ってもらいたくて」

 まずは「女でなくなるという感覚を払拭(ふっしょく)したかった」。知人女性には切除手術を拒んで命を落とした人もいた。「豊胸手術と乳房再建は根本的に違うし、乳房や子宮を失うことと女性性の喪失とは無関係です」。篠田さんは水泳が趣味で、パッドなしで水着が着たいと切除後の再建を選択。担当編集者の「胸元ぱっくりドレス姿を見たい」という言葉が気に入り、「再建六十女の姿が、乳がん手術にまつわる憂鬱(ゆううつ)なイメージに蹴りを入れてくれるものになればうれしい」と書いた。

 もう一つ、全編を通じて、在宅介護の負担が介護者を病に至らしめる「異常事態」が多発する現代社会に、警告を発する。「やはり介護者の病気と、介護との因果関係はありますよね。私の乳がんも同じ」

 綿密なリサーチに基づき、人の心の深淵(しんえん)を掘り下げるエンタメ小説を発表してきた。他者になりすますうちに人格が変容する不思議と恐ろしさを描いた『鏡の背面』は今年、吉川英治文学賞を受賞。校正作業は手術当日も続けた。「万が一のことがあったら、という作家根性ですね」

 数々の作品はこの二十年、認知症で叫び暴れる母をなだめ、排泄(はいせつ)物のついた下着を手洗いする日々と同時進行で生み出されてきた。だがこのエッセーも「辛(つら)いけど在宅介護を頑張ろうというトーンだけにはするまいと思った。社会には献身的に介護する人を礼賛する空気がある。やめてくれって思う」。

 篠田さんの友人の娘は、介護した母をみとった直後に死去。母娘同時に四十九日の法要をした。「明るい介護など存在しない。それなのに、感動話ばかりが流布される。膨れ上がる公的負担を抑制しようと、国は在宅介護を推進しますが、実際は公的支援は形ばかりで、家族に重い負担がのしかかっているんです」

 これまでも、医療技術が発達し、寿命が尽きた後も死なせない不条理をテーマのひとつにしてきた。

 「共倒れになっても自分が介護すると思い詰めた『しっかり者』の方々こそ、医療や介護の専門家の言葉を聞いてほしい。疲弊した頭と心で下した判断には、悲劇的な結末が待つことが多いから」と自らの経験から思う。

 病気も介護も体験すればイメージががらりと変わる。自己憐憫(れんびん)や他人の同情は役に立たない。それよりも「行動あるのみ」。闘病や介護の真っ最中の人も、そうでない人も。この本を読むと、作家に優しく肩をポンとたたかれて、励まされているような気持ちになる。 (出田阿生)

 

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