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【考える広場】

3・11 復興、復旧どこまで

 ことしも三月十一日がやってくる。被災地のみならず、日本全体を押しつぶした悲しみと苦しみ、衝撃から八年。復興はどこまで進んだのか。今も傷を抱える被災者の心は。そして課題は。

 <復興> 復興庁などによると、避難者数は発災直後の47万人から5万2000人に。高台への移転で造成された宅地は約1万8000戸分が確保され、津波で被災した農地も92%で営農可能になり、本年度末でいずれもおおむね事業を完了する。水産加工施設も96%が業務を再開した。

 インフラは2019年度中にJR常磐線が全線の、三陸沿岸道路、相馬福島道路も一部が開通を予定している。今秋には、岩手県の釜石鵜住居復興スタジアムを会場に、ラグビーワールドカップ2019の2試合が開催される。

◆なりわい再生、正念場 三陸鉄道社長・中村一郎さん

中村一郎さん

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 あれから八年。岩手に関していうと、外形的には、災害公営住宅の整備進捗(しんちょく)率が九割を超えたり、東北横断自動車道の花巻−釜石間が開通したりするなど、いろんな復興事業が終盤を迎えています。

 当社でも今月二十三日、復旧済みだった南北リアス線に加えて、不通だったその間の宮古−釜石間が復旧してJRから当社に移管され、新しくリアス線として一つにつながります。

 バス転換を提案してきたJRに対し、鉄道の維持にこだわった県と沿線市町の意思で実現した新線です。全線百六十三キロは第三セクター鉄道では全国最長。六月から八月にかけて「三陸防災復興プロジェクト」の一環で、復興の今を学ぶ列車や夜行列車などを運行する予定です。

 こうした動きを振り返ると、鉄道は単なる人を運ぶ手段ではないと感じます。沿線の市町村にとって、鉄道があるかないかで町づくりの絵が変わってくるのです。バスではなく鉄道にこだわったのは、外から三陸に人を呼び込む重要な観光資源でもあるからでしょう。

 リアス線開通に向けて、JRからの出向者を含め四十人ほど増員しました。地方鉄道は当社も含め厳しい経営環境にあり大変ですが、災害復興の象徴として、地域振興のけん引役として役割を果たしていきたい。

 復興のゴールが見えてきたように思われますが、実は細かく見ていくとばらつきがあります。沿岸北部の地域は確かにほぼ終盤といっていいのですが、南部は中心部の復興がこれから。被災者を見ても一人一人で差があります。仕事があって自宅再建も既に済んだ人は先の不安も少ない方が多いようですが、高齢者などはなかなか将来展望が持てません。仮設住宅を出ようにも出られない人がまだ一定数いらっしゃいます。

 加えて、「なりわいの再生」は、これからが正念場です。これまでは復興特需に支えられてきた面がある。工事関係者や被災地を応援しようと来られる人たちが減っていく今こそ、地域としても個人としても自立し、持続的な地域経済、地域社会をつくることが求められます。

 復興はどこで終わりなのでしょう? 私はどこかの時点で終わるものではないと考えます。自立に向けた取り組みの過程こそが復興であり、その意味でそれは永遠に続くのではないでしょうか。

 (聞き手・大森雅弥)

 <なかむら・いちろう> 1955年、岩手県生まれ。東京大法学部卒。79年、同県に入庁。沿岸広域振興局長、政策地域部長、復興局長などを歴任した。退職後の2016年6月から現職。

◆見えない痛み、想像を 映像制作・尹美亜さん

尹美亜さん

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 被災地、被災者という言葉が好きではありません。特別な場所や人だと区切るような感じがして。たまたま災害に遭遇しなかった私たちだって、十分にその立場になり得た。当たり前のことですが、同じ人間です。

 だからこそ、被災した人たちの、何の変哲もない日常を切り取りたい。そんな思いで、震災から六年後の東北に生きる市井の人々を追ったドキュメンタリー映画「一陽来復」(二〇一八年公開)を監督しました。

 「津波の映像がない」「被災時の話が少ない」と批判する声もありました。でも、「あの日・あの時」の話ではなく、それ以降と現在を語ってほしかった。辛(つら)い体験であるほど傷に触れてしまうから、身近な人とは話しにくい。取材する私たちが第三者だったから、みなさんも話しやすかったのだと思います。

 普通の人たちが何げなく口にする、鋭い言葉に何度もハッとしました。南三陸町の旅館スタッフの男性は「風化させたくない以上に、なかったことにしたくない」。七十代の酒屋経営の女性は、津波で流された店と自宅の多重ローンに悩む美容師さんに「大丈夫、今日の連続だから。今日やることをしっかりやるだけだから」と励ましていました。自分も同じ苦境なのに。

 石巻市の木工職人、遠藤伸一さんは「顔に、三人子どもを亡くしたオッサンとは書いていないから」と、さらっと言います。津波で中学生と小学生の三人の子を一度に失い、夫婦二人だけが残された。笑顔の裏に、どれほどの悲しみと苦しみがあっただろうかと想像します。

 成人式が近づいたある日、伸一さんの妻の綾子さんが「気持ちが沈んでいたけど、やっぱり同級生の子たちは祝ってあげたい」と言いました。生きていれば長女が成人する年。私は全く気付いていませんでした。明るく振る舞っていても、見えないところで辛さが続いています。子どもの年齢を数えて、死ぬまで悲しみが続く。第三者である私たちは、そのことを想像しないと、と思います。

 落ち込んで起きられない朝もあれば、笑える時もある。でも、生きてさえいればいい。みんなが日々生きている。それだけでも復興なんだと思います。

 風化は仕方ない。忘却は生きる上で必要な機能です。忘れても、見えない痛みを想像することで補っていかなくてはと思うのです。

 (聞き手・出田阿生)

 <ゆん・みあ> 1975年、長野県生まれ。広報職を経て、ドキュメンタリー番組や映画制作に携わる。主な参加作品に『サンマとカタール 女川つながる人々』『こいのわ 婚活クルージング』。

◆心のケア、交流が重要 東北大教授、精神科医・富田博秋さん

富田博秋さん

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 ある日突然、予期せぬ形で生命の根底を揺るがされる。家族や親しい人、住み慣れた家を失う。大災害がもたらす強いストレスは、うつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こす要因になります。

 私たちは、東日本大震災の津波などで九十四人が亡くなった宮城県七ケ浜町と共同で、毎年秋に心身の健康調査を続けてきました。対象は大規模半壊以上の家屋被災をした約二千八百人。二〇一一年の調査では、うつや不安を反映する「心理的苦痛」があると判定された人が半数を占めました。全国平均は三割ですから、かなり高い割合です。一二〜一四年は回復基調にありました。ところが一五〜一七年は、じりじりと悪化しました。仮設住宅から災害公営住宅に移った時期と重なります。

 仮設住宅では、被災者を孤立させないよう支援センターや交流スペースを設けるなどケアが行き届いていました。同じ体験をし、同じ境遇にある人同士でコミュニティーができ、支え合っていました。一方、災害公営住宅では自助を促す観点から支援センターはなくなり、被災者同士の交流も減りました。人との交流はメンタルヘルス維持のためにも重要です。自助を促すのはいいのですが、少し急ぎすぎたかもしれません。次の大災害発生時の課題だと思います。

 一八年の調査では、心理的苦痛がある人の割合は全国平均並みになりました。全体として見れば改善したと言えます。しかし、八年がたった今でもメンタル不調に苦しむ人はいます。

 つらい体験の記憶は心の奥に抑え込まれがちです。地震が起きたときまでのことは覚えている。次に思い出すのは避難所でずぶぬれになって毛布をかぶっている場面。その間の記憶が抜けている。圧倒的な現実に対し、心が取る防衛反応の一例です。急場、心を守る上で必要な面もあります。一方、記憶が整理されず、何かの弾みでフラッシュバックが起きて苦しむことにもなり得ます。思い出すことを避けるばかりでなく、安心できる生活環境、安心できる人間関係の中で、無理のない範囲で少しずつ記憶を反すうし消化することも大切です。

 東日本大震災以降、実務面でのケアに加え、学問的知識集積の必要性が認識されています。震災から得た知識を体系的にまとめ、後世に伝えていきたいと考えています。

 (聞き手・越智俊至)

 <とみた・ひろあき> 1963年、福岡県生まれ。岡山大大学院博士課程修了。医学博士。2006年、東北大精神・神経生物学分野准教授、12年から災害精神医学分野教授、18年、精神神経学分野教授。

 

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