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【考える広場】

歴史から見る天皇制 桐山桂一・論説委員が聞く

 天皇陛下の退位で「平成」は四月三十日に幕を閉じ、翌五月一日には新天皇の即位で「令和」が始まります。現代は象徴天皇制の時代ですが、明治・大正・昭和前期の天皇は、いわば神格化された国家元首で、陸海軍の大元帥でもありました。山口輝臣・東京大大学院総合文化研究科准教授と江戸時代の天皇の姿から歴史を振り返ります。

◆時代で姿を変えつつ 東京大大学院准教授・山口輝臣さん

山口輝臣さん

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 <桐山> まず江戸時代の一般の庶民たちは、天皇の存在について、どう知っていたのですか。武家政権下で天皇はどんな役目を負っていたのでしょう。

 <山口> 江戸時代の人もほぼ天皇の存在は知っていました。ただ天皇ではなく、天子、天子様と呼んでいました。朝廷も禁中とか禁裏ですね。幕府は公儀という呼び方でした。天皇の役目のうちとりわけ大事なのが、征夷大将軍を任ずることです。公家の官位の叙任などもあります。「禁中並公家諸法度」にあるように、学問と和歌に励んでいた存在でもありました。

 <桐山> 意外ですが、天皇の代替わりでの大嘗祭(だいじょうさい)は長く行われていなかったそうですね。

 <山口> 代替わりでは、即位の礼や大嘗祭などさまざまな行事が行われます。ところが、大嘗祭は応仁の乱(一四六七〜七七年)のころから途絶えてしまい、江戸時代の貞享四(一六八七)年の東山天皇の即位で、二百二十一年ぶりに再興されました。一世一度の最大の祭りといわれ、これを経て真の天皇になるとも言われる大嘗祭ですが、執り行うにはそれなりの費用が必要でそれが長年、捻出できなかったのが途絶えた原因でしょう。江戸時代に復活したのは、幕府の支援によるものです。

 天皇の祭儀は神事ばかりでなく、仏教色のものもあります。密教儀礼も…。そして、天皇の葬礼と埋葬は寺院が行いました。供養も仏式です。次第に京都の泉湧寺(せんにゅうじ)に墓所が定められていきます。

 <桐山> でも、明治では仏教色は極度に弱められます。どんな事情があったのでしょうか。

 <山口> 国学の影響が一つあります。「古事記」にあるような「古(いにしへ)」が理想的であり、その後、中国から「古」を汚す儒教や仏教が流入したと考えるわけです。もう一つが水戸学です。「大日本史」の編纂(へんさん)にあたり、天皇の血統、つまり皇統が途切れていないことこそ、日本固有の「国体」であり、特別の価値を持つと考えるようになります。

 それらの影響を受けた明治維新のなかで、神仏の世界にいた天皇にも、神仏分離がなされた。京都から東京へと遷都されたことも、仏教の世界から逃れやすくなったと思われます。密教との関係では、明治天皇は数え十六歳で即位しました。即位の礼は京都御所で行われましたが、このとき「即位灌頂(かんじょう)」という密教儀礼が廃止されました。このことは明治天皇が大日如来と一体化することなく即位したともいえます。これは少なくとも五百年ぶりの出来事でした。

 <桐山> 幕末に日米修好通商条約を調印した際、幕府は天皇に勅許を求めました。条約締結に不可欠な手続きでしたか。

 <山口> 不可欠ではなかったのですが、おそらく天皇の勅許があればなおよい、それによって条約調印への支持が盤石になると幕府は考えたのでしょう。しかし、天皇は拒否しました。その結果、武家政権と天皇の力関係を変える結果をもたらしてしまいました。

 <桐山> さて、明治になり近代の天皇制が姿を現します。天皇による統治、さらに明治憲法では「天皇は神聖にして侵すべからず」の条文もありました。天皇中心の国づくりが明確です。旧皇室典範で退位を認めなかったのはなぜでしょう。

 <山口> 明治憲法も旧皇室典範もその制定に力を振るったのは、伊藤博文です。退位については、江戸時代までは天皇にはいわば退位の自由がありました。しかし、退位によって上皇になり、別の権力を得ることで混乱を来すこともあるわけです。実際、明治に入ってからも侍補(じほ)という天皇の周囲の人々が力を持ったこともあります。こうしたこともあって伊藤は天皇が勝手に退位できない仕組みにしたのです。

 <桐山> 一九三七(昭和十二)年に文部省が出した「国体の本義」という本には、天皇は「現人神(あらひとがみ)」と記されていますが、これはどういう意味でしょう。

 <山口> キリスト教における神という意味ではありません。いわば「限りなく尊くかしこき御方」という意味でしょうか。ただ「現人神」という言葉が広く用いられるようになるのは、第一次大戦後のことです。昭和天皇の「人間宣言」は四六年元旦に発布されたもので、自らが現人神であることを否定したものと読めます。いわば昭和戦前期的な見方を否定したので、一方で日本の民主主義の基盤は「五箇条の御誓文」と語っているように、明治維新以降をすべて駄目としたのではありません。

 <桐山> 現人神と関係しそうなものとして、国家神道というものがありますが。

 <山口> こちらはもっと遅く、本格的に使われるようになるのは、終戦後に連合国軍総司令部(GHQ)が国家神道の廃止を指令して以降のことです。

 <桐山> GHQは国家神道の何を恐れたのでしょう。

 <山口> 自由の保障、国家神道の廃止、キリスト教への支援の三つが宗教への改革案の中核です。信教自由の抑圧などの元凶をGHQは神道とみなし、それが再び軍国主義と結びつかないように考えました。だから、その身から国家主義的、軍国主義的要素をはぎ取りました。

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 <桐山> さて天皇陛下は二〇一六年夏に退位の意思を示されました。江戸時代の光格天皇から約二百年ぶりの退位の復活です。国民の多くも支持しています。ここで陛下の語った「公的行為が困難になる」という意味を深く考えたいのですが…。

 <山口> 「おことば」では象徴天皇の務めとして「国民の安寧と幸せを祈ること」と「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を挙げています。前者は法的には根拠のない宮中祭祀(さいし)を、後者は被災地訪問や慰霊の旅を指しているといえます。

 象徴としてのあるべき形を模索していく中で、この二つが両輪関係として位置付けられていきました。いずれも多くの国民は好意を寄せているし、天皇と国民との距離は縮まったように見えます。

 <桐山> ただ宗教的な宮中祭祀はあくまで天皇家の私的なもので、公費でまかなえば憲法上の問題も発生します。

 <山口> 昨年、秋篠宮が大嘗祭は天皇家の内廷費で行うべきだと発言しました。「身の丈に合った」かたちでと…。宮中祭祀についていうと、これまで政府がとってきた立場とほぼ同じものとも言えます。

 しかし、いかんせん大嘗祭は規模が違うので…。ただ「おことば」で示された宮中祭祀と象徴的行為が、両者の連関ともども、次の天皇にも引き継がれていく可能性は高いと思われます。

 <やまぐち・てるおみ> 1970年横浜市生まれ。高知大、九州大を経て現職。専門は日本近代史。著書に『明治国家と宗教』『明治神宮の出現』、編著に『戦後史のなかの「国家神道」』『はじめての明治史』、共著に『平成の天皇制とは何か』『天皇と宗教』など。

  <大嘗祭> 新天皇の即位後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。稲作農業文化で伝承された収穫儀礼に根差す。7世紀後半、天武・持統天皇のころに皇位継承儀式となったとされる。明治天皇は初めて東京の皇居で、大正、昭和天皇は京都御所で行った。平成の前回は、憲法の政教分離原則を考え、皇室行事としたが、費用は政府が国費でサポートした。

 

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