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【考える広場】

東ティモール住民投票から20年 小野木昌弘・論説委員が聞く

 二十年前の住民投票で独立を選択した東ティモール。小さくて弱い存在ながら、住民の強い意志に支えられ、二十一世紀最初の独立国として二年後には“成人式”だ。当時、現地で働いた大阪大大学院国際公共政策研究科長の松野明久教授(国際政治・紛争研究)に振り返ってもらい、英国の国民投票や沖縄の県民投票への考えも語ってもらった。

 <東ティモール> インドネシア・バリ島の東方に浮かぶティモール島の東部分。面積約1万5000平方キロ、人口約132万人。1975年、左派政党が独立を宣言したが、76年に反共のインドネシアが武力で併合して弾圧。99年の住民投票で独立派が圧勝。2002年に独立。めぼしい産業はなく、国家歳入の大半を天然ガスなどの資源収入に依存する。

松野明久教授

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 小野木 住民投票から二十年です。感慨深いことでしょう。今も現地へ行っていますか。

 松野 多くの血が流され、関わった私自身もつらい体験をしました。研究者としての生き方を変えるほどのインパクトがありました。現地へはほぼ毎年入っています。二十年前、投票直後の騒乱で焼かれ、荒れ果てた首都ディリの街並みは、すっかり復興しました。問題は多々ありますが、住民は平和のありがたみを実感している様子。今年も行きます。

 小野木 現地では、どんな仕事をしたのですか。

 松野 国連ボランティアで、ディリ市内の投票所の管理運営にあたりました。住民投票に、現場で直接携わりました。そのため、トラブルといえることにいくつも遭遇しました。

 小野木 武力併合から四半世紀で二十万人ともいわれる住民が死亡した独立紛争。住民投票の前後にも、併合派の民兵が独立派の人たちをしばしば襲撃しました。民兵のバックには、インドネシア軍や警察がいたとされています。独立派の動きを民兵に封じさせ、それを黙認することで併合派に資するということでした。松野さんは、混乱を目の当たりにしたのですね。

 松野 はい。住民投票の運動期間中だった一九九九年八月二十六日、私の担当地区で、警察による大規模な発砲事件があり、住民が千人単位で逃げ惑っていました。急いで事務所に引き返すと、撃たれて血まみれの青年が担ぎ込まれてきました。私たちには血を拭うなどの処置しかできない。独立派とみられる青年は、ほどなく目の前で亡くなりました。彼は、その何日か前、私自身が有権者登録をした相手でした。

 ショックで翌日カウンセリングを受けました。二十年たった今でも忘れることはありません。時折、深い悲しみが襲ってきて泣いてしまうことがあります。心理学の先生に相談すると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)ほど重くはないが、グリーフ(悲嘆=喪失への反応)という症状だそうです。そのほかにも、つらい体験をいくつもしました。

 小野木 荒れた運動期間を経て、八月三十日の投票日を迎えました。投票率は98・6%に達し、独立問題への高い関心というよりも切実な独立の希求を感じさせました。

 松野 早朝、投票所では大きな登録証を持った人がズラーッと行列をつくっている。体が不自由で、投票所へたどり着くのが大変なお年寄りも来ていました。トラックの荷台に椅子を固定し、その椅子におばあちゃんをくくりつけて運んで来てもらったのも見た。

 住民たちは、非常によく分かっていたんですね。民族の命運を決める一票の意味を。こんな小さな民族がこんな目に遭っていて、世界は忘れようとしている。勝っても負けてもやるしかない。住民たちが見せた行動は現代史全体から見ても、偉業だったと思います。

 小野木 結果は五日後の九月四日に発表され、独立賛成票が78・5%で圧倒的でした。でも民兵が暴れて発砲や放火を繰り返し、ディリなどでは騒乱状態になってしまいました。

 松野 民兵の大暴れは投票の直後から始まっており、騒乱の犠牲者は千五百人といわれています。私も命からがらでした。滞在中にお世話になった大家さん一家は、隣の西ティモールへ脱出して無事でした。

 小野木 国連の暫定統治で混乱を収め、二〇〇二年に独立式典を開きました。松野さんも出席されたのですね。

 松野 はい。式典は喜びにあふれた雰囲気でした。でも、私にとって、あの苦しくつらかった住民投票の方が心に残っています。

 小野木 独立派と併合派の対立で血を流した住民投票でしたが、双方の関係修復への努力はされたのでしょうか。

 松野 〇二年に「真実和解委員会」が設置され、私もアドバイザーとして一年間行っておりました。住民投票以前からの種々の人権侵害事件の調査や被害者からの聴取などをしました。また、被害者が自分の体験を話し、現地のテレビで生中継されました。さらに、紛争の実態を記録した報告書を作りました。五巻で計二千五百ページにもなりました。この仕事は、各国政府の分担で賄われ、数億円の総事業費のうち、日本政府が最大の拠出国でした。

 同時に、和解部門というのがあって、西ティモールへ逃げた民兵と東ティモール住民との和解を進めました。千五百件扱って、千四百件成功しました。「東ティモールへ帰りたい」という民兵側の調書を取り、ディリの検察庁が吟味します。その結果、事案の内容が「それほどひどくない」と判断されれば、「戻ってよし」となります。

 ただし、村で被害者も交えた集会をやり、民兵は罪を告白して許しを請うという流れです。殺人やレイプといった重大犯罪は裁判になります。

 小野木 キリスト教徒が圧倒的に多いので「懺悔(ざんげ)」「告白」がなじむのでしょうか。

 ところで、英国が欧州連合(EU)離脱に賛成した国民投票で揺れています。

 松野 唐突すぎましたね。重大な選択なのだから、十分に説明する期間が必要です。東ティモールの住民投票は議論の期間はそんなになかったけれど、独立紛争は四半世紀の間続いていたので、住民は皆考え抜いていたと思います。

 小野木 中央政府との間にあつれきを生じている島として、日本の沖縄が連想されます。東ティモールは、住民投票でインドネシアからの解放を勝ち得ました。沖縄は今年二月の県民投票で「米軍基地の辺野古移設反対」の票が72%あったものの、政権は辺野古への移設方針を堅持しています。

 松野 沖縄の県民投票の場合は、法的拘束力がないのが東ティモールとの大きな違いですが、「辺野古への移設反対」の民意は示されたわけです。それを軽んじることはできません。

 沖縄の人たちは、長年の基地問題をよく分かって投票したと思います。力では負ける。声はこれだけ大きい。意志が固まっていることを示すしかない状況だったという意味では、沖縄も、東ティモールも同じではないかと思います。

 強い方が聞く耳を持たないと。力を持っている方が動かなければいけません。東ティモールでは、最終的にはインドネシア政府が(住民投票の結果で独立を認めるという)聞く耳を持とうとしました。沖縄の問題では、日本政府がもっと聞く耳を持たねばなりません。

 <まつの・あきひさ> 1956年、熊本県生まれ。東京外国語大卒、同大学院修了。大阪外国語大教授などを経て2007年から現職。研究フィールドは東ティモールとインドネシアが主体。著書に『東ティモール独立史』など。15年、東ティモール政府から「東ティモール勲章」を受章。

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