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【文芸時評】

石井遊佳「象牛」 坂上秋成「私のたしかな娘」 古川日出男「ローマ帝国の三島由紀夫」 佐々木敦

石井遊佳さん

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 「象牛」(『新潮』10月号)は、デビュー作『百年泥』でいきなり第百五十八回芥川賞を射止めた石井遊佳の受賞第一作である。

 『百年泥』はインドのIT企業で日本語教師をしている日本人女性の生活をマジック・リアリズム仕立てで軽妙に描いた好作だった。「象牛」の舞台もインドである。語り手の女性はT大学の大学院でインド学を学んでいる。彼女は指導教官であるT大准教授の片桐と会うためにインドにやってきた。独創的な論文を多数発表し、インド学の泰斗として知られる片桐は性的にも奔放で、あっという間に二人は関係を持ったのだが、最近急によそよそしくなった。

 どういうことなのかは薄々わかりながらも彼女は諦め切れず、インドでの学会発表のあとに博士課程時代の留学先であるヴァーラーナシーに滞在するという片桐を追いかけるように海を渡ってきてしまったのだった。

 ヴァーラーナシーは英語読みだとベナレス、ガンジス川が流れるインド最大の宗教都市である。ヒンドゥー教の教義や伝説は日本人の多くにとって馴染(なじ)みの薄いものかもしれないが、石井はそこに『百年泥』同様、荒唐無稽なフィクションを大胆に紛れ込ませる。象牛とは「象でも牛でもない。合いの子でもない。象のような鼻に、牛のような体つきと間のびした顔」を持ち、象と牛以外の動物にも似ていて、そればかりか「でまかせに輪郭をこねては形をぬぐ。たぐいまれな模倣の能力があり、たくみに人声をまねる」ことも出来る。

 ほとんど変幻自在の魑魅魍魎(ちみもうりょう)だが、ヴァーラーナシーには象牛がうようよいて、住民や観光客に迷惑をかけたり役に立ったりしている。もうひとつは「リンガ茸」で、こちらはもっとグロテスクだが、嘘八百であることは象牛と同じである。象牛とリンガ茸によって、他のインドのちゃんとした習俗や言い伝えなども、どこまでが真実でどこからが幻想なのかわからなくなってくる。これぞマジック・リアリズムである。

 語り手が片桐との再会を期待しつつヴァーラーナシーを彷徨(さまよ)う現在の合間に、彼女の過去の悲惨だったり滑稽だったりするエピソードが挟み込まれてゆく構成も含め、この作品は『百年泥』と同工異曲である。しかし細部の面白さや語り口の滑らかさは増しており、まずは手堅い第二作と言っていいだろう。とはいえ第三作では、まったく異なる題材やアプローチの小説も読んでみたい。それがやれる才気も技術も持った作家だと思う。

 坂上秋成の「私のたしかな娘」(『文学界』10月号)には虚を突かれた。「私」こと神谷は三十代半ばの元ひきこもりの独身男性で、十年近く働いているカフェレストランのオーナーである十郎と晴美の娘、由美子を、彼女が六歳の頃から十二歳の現在まで、ひとり暮らしのマンションに頻繁に預かっている。

 多忙な両親は彼に感謝するばかりだが、実は神谷は六年前から由美子に「エレナ」という自分だけの名前をつけて、一緒にいる時は「私の娘」として接しているのだ。物語はこの奇妙な、いっそ奇怪と言ってもいいような男と少女の関係を丹念に描いていく。

 このように書くとおそらくほとんどの読者が、神谷はエレナに倒錯した愛情を抱いているのだと推測することだろう。私も途中まではそう思っていた。だが違うのだ。小説の終わり近くになって明らかにされるのは、神谷が愛しているのは十郎なのだという事実である。もちろんエレナのことも愛しているのだが、彼にとって彼女は自分と十郎の間の娘なのである。しかもさらに重要なことは、では「私」は「エレナの母親」すなわち「十郎の妻」になることを夢見ているのかといえば、そういうことでもなく、彼はあくまでも「エレナの父」なのだ。ある意味でシンプルな筋立ての小説だが、細やかな描写を重ねていくことによって、ひとりの人間の極めて複雑な内面を、まるで暗闇にゆっくりと照明をあてるように浮かび上がらせることに成功している。いわゆる「LGBT(性的少数者)」を主題とする小説としても出色の作品だと思う。

 『新潮』10月号で古川日出男が長編戯曲「ローマ帝国の三島由紀夫」を発表している。同誌は野田秀樹や岡田利規、神里雄大などの戯曲を随時掲載してきたが、舞台化の決まっていない純粋な書き下ろし戯曲、それも小説家の筆による戯曲は非常に珍しい。古川には『冬眠する熊に添い寝してごらん』という戯曲があるが、これは故・蜷川幸雄の演出によって上演されることが前提だった。だからこれはかなり貴重な試みだと言っていい。

 「戯曲」も「文学」の一形式である。かつての文豪はしばしば戯曲に取り組んだものである。その最大の存在こそ三島由紀夫であり、古川は大胆にも「ミシマユキコ」を舞台上に登場させる。破格のスケールの小説を次々と書いてきたこの作家は、戯曲でもあっさりと時空を超えてみせた。

  (ささき・あつし=批評家)

 

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