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【文芸時評】

町屋良平「ショパンゾンビ・コンテスタント」 今村夏子「むらさきのスカートの女」 佐々木敦

 『新潮』4月号に早くも町屋良平の芥川賞受賞第一作「ショパンゾンビ・コンテスタント」が掲載されている。とはいえ長さとタイミングからしておそらく受賞以前に書き進められていたものだろう。ピアニストとしての自分の才能に見切りをつけ、音楽大学を中退して今は小説家を目指している「ぼく」、その親友で気まぐれな性格ながらピアノの天賦のセンスを持つ源元、源元の恋人で「ぼく」が片想いしている潮里、「ぼく」と潮里とはファミレスのバイトが一緒の、何かと頼りになる寺田くんの四人の物語である。

 芥川賞受賞作「1R1分34秒」のボクシングとは打って変わってクラシック・ピアノが題材だが、町屋の個性である、ひらがなの多用が特徴の、非常に感覚的ではあるが時々妙な理屈っぽさが垣間見える語り口は相変わらず魅力的で、才能と努力のしばしば不公平な関係や、他人と自分どちらものわからなさ掴(つか)まえ難さを丁寧に描き出そうとする姿勢は一貫している。自分たちをモデルにした「ぼく」の小説の書き出しが何度も挿入されるのが面白い。そういえば町屋と一緒に芥川賞を受賞した上田岳弘の「ニムロッド」にも同様の設定があった。小説の中で小説が書かれる、という趣向が、かつてのような前衛的な文学実験としてではなく、もっとナチュラルに行われていることが興味深い。

 小説が読まれなくなったと言われて久しいが、その一方で各種新人賞への応募は増加しており、インターネットの小説投稿サイトも大流行している。「小説を書くこと」の意味が変質してきているのかもしれない。町屋と上田の最新作に「小説家志望者」が出てきたことは、このことと関係があるような気もする。

 今村夏子が、以前の極端な寡作が嘘(うそ)のように次々と新作を書いている。作品集『父と私の桜尾通り商店街』が出たと思ったら新作中編「むらさきのスカートの女」(『小説トリッパー』春号)が発表された。

 語り手の「わたし」は近所で「むらさきのスカートの女」と呼ばれている女性のことが気になって仕方がない。呼ばれている、というのは事実ではなく実は「わたし」が勝手にそう名付けただけなのだが、「わたし」の頭の中では「むらさきのスカートの女」はちょっとした有名人なのである。「わたし」は「むらさきのスカートの女」と友達になりたいあまりに一計を案じ、自分と同じホテルの清掃の仕事に彼女を引き込むことに成功する。といっても「わたし」は「むらさきのスカートの女」と直接知り合いになることのないまま、いわば遠隔操縦でそれを達成するのだ。新しい環境で「むらさきのスカートの女」は急速に変化していく。その様子を「わたし」は陰ながら逐一見守る。それはほとんど「監視」と言ってもいいものだ。

 今村の小説はいつも、一人称の語り手が少し(だいぶ)変わった人間を観察しているようでいて、読み進むうちに、いや、変なのはむしろ語り手の方なのだと気づかされる。この作品も同じだが、隙だらけのようで油断のならない筆捌(さば)きはもはや名人芸の域に達している。物語は後半、思いも寄らぬ展開となる。読む側の心持ちによって、ユーモア小説にも、不気味な話にも、痛ましい物語にも姿を変える、今村にしか書けない作品である。

 橋本治が亡くなった。『文学界』『新潮』『群像』『すばる』『小説トリッパー』が追悼記事を組んでいる。その中では『群像』4月号の「『近未来』としての平成」が重要である。二回連載の長編論考になる予定が著者の死によって前半部のみの未完となった実質的な遺稿である。「昭和の終わり」の極私的な回想から始まり、彼ならではの、断言の連続がそのまま逡巡(しゅんじゅん)でもあるような文章で、新たな何かを得たと思う幻想と引き換えに沢山のものを失っていった「平成」という時代が語られる。「だから、ここでもう一度、そもそも『社会』とはどういうものだったかを考えてみる必要がある」。ここで途切れている。残念なことだ。

 (ささき・あつし=批評家)

 

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