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【文芸時評】

千葉雅也「デッドライン」 木村紅美「夜の底の兎」 山下澄人「月の客」 佐々木敦

 「デッドライン」(『新潮』9月号)は、哲学者・批評家の千葉雅也の小説デビュー作である。ジル・ドゥルーズを研究対象とする修士論文の提出期限(=デッドライン)を控えたゲイの大学院生である「僕」(他人が呼ぶときは「◯◯」と伏せ字になっている)の苦闘と苦悩の日々を、これまでの千葉の著作とも共通する明晰(めいせき)な屈折ともいうべき考え抜かれた文体で描いた作品で、主人公のプロフィルはかなりの部分まで作者自身と重なっている。実際、これはほぼ「私小説」と呼んで差し支えのない作品である。いまだ何者でもない院生の寄る辺の無さと、ハッテン場などのリアルな同性愛描写、そして高度に哲学的な思弁が、ドゥルーズの鍵概念のひとつである「生成変化(Xになること)」を内的な論理として精密に織りなされ、千葉にしか書けないユニークな青春小説となっている。知性と欲望の二極に引き裂かれそうになりながらも、自分ならざるものを志向することによって自分自身になろうとする「僕」の姿は切実で、美しい。デビュー作にはすべてがあるとよく言われるが、この作品にはおそらくそれ以上のものがある。

 高尾長良「音に聞く」(『文学界』9月号)は、京都に住む「文学好きの女性」である「わたし」の許(もと)に友人が持ち込んだ、二十年前にしたためられた或(あ)る女性の手記、という体裁を取った作品。舞台はオーストリアのウィーンである。十五年前に両親が離婚し、以来父親には一度も会うことなく日本で育った姉妹が、母の死をきっかけに父が長年住むウィーンにやってくる。姉(この手記の書き手でもある)は翻訳家を志し、まだ十五歳の妹は若くして作曲の才能を開花させつつある。著名な音楽学者である父と姉妹はほとんど初対面だが、父は下の娘に関心を抱き、しかし彼女は反撥(はんぱつ)する。姉はやがて父となかば引退した高名な女歌手とその夫の関係が気になり始める。擬古的といってもよい濃密な異国情緒と豊饒(ほうじょう)な芸術趣味に彩られた力作だが、手記という趣向がどのように機能しているのか、わかりづらい気もした。それに、この題材を語り切ろうとするなら、この長さではまだ足りない。

 木村紅美「夜の底の兎(うさぎ)」(『群像』9月号)も力作である。事実婚の夫婦二人で小さな建築事務所を切り回してきた「わたし」は、夫と以前アルバイトに来ていた若い女性のあいだに子供ができたことによって突然、生活の大きな変化を余儀なくされる。彼女は出張で盛岡に行った折、三十年前の小学生の頃は毎年夏休みに来ていたが、その後両親の離婚によって訪問が途絶えることになった父方の実家のある町に寄ってみる。そこには特別な想(おも)い出があった。小六の夏に「わたし」は奇妙な老婆(ろうば)に命じられて、どうしてか蔵の中にずっといる「ゆめちゃん」と毎日のように遊んだのだ。あの少女(?)は、いったい何だったのか。彼女はあのあと、どうなったのだろうか。「わたし」は「ゆめちゃん」の行方を探り始める。ファンタジックで叙情的な描写と、きわめてシリアスな社会的問題が、独特なバランスで溶け合っている。物語が現在に追いついてからの展開には思わず目を見張った。

 山下澄人「月の客」(『すばる』9月号)は、デビュー以来、唯一無二の小説世界を築き上げてきたこの作家の最高傑作である、と断言してしまおう。トシという男の一生が物語られるのだが、これまで以上に、時間も、空間も、前後関係も因果関係も、文章も文字も、何もかもがバラバラにされて、ぐるぐると廻転(かいてん)しながら進んでゆく。母、父、サナ、ラザロ、そして、いぬたち。出来事だけを取り上げれば、これは途方もなく悲惨で酷薄な、持たざる者たちの、救いのかけらもない話だ。しかし同時にこれは、ほとんど神話である。とにかく書きっぷりが凄(すご)い。これはもう自由自在という形容では全然足りない。「小説」というものにまだ可能性が残されているとしたら、この作品こそがそれだ。大袈裟(おおげさ)ではない。

  (ささき・あつし=批評家)

 

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