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【放送芸能】

どっこい生きる“民謡酒場” 衰退傾向でも…老舗の魂 今もなお「若手育てる」

どじょうすくいも登場し「安来節」で盛り上がる「和ノ家追分」=いずれも東京都台東区で

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 高度成長期からその後の民謡ブームの時期、東京にはあまた「民謡酒場」が存在し、盛況を極めた。そこではプロを志す若手が働きながら芸を磨き、望郷の思いを募らせる客は古里の歌を口ずさみ、明日の活力を得た。民謡の退潮とともに店は減ったが、「生きた民謡を伝える場」を守ろうと奮闘する人たちがいる。昨年閉店した東京・浅草の老舗の若おかみとその夫は今月、新たに店を構えた。どっこい生きる民謡酒場ののれんをくぐると−。 (酒井健)

 五月中旬の夜、東京・浅草。津軽じょんがら節(青森)、牛深ハイヤ節(熊本)、安来節(島根)といった名曲の歌と演奏に、四十五席を埋めた客は大喜び。フィナーレのオリジナル曲「風雪の音脈」。従業員六人による津軽三味線の激しくも繊細な旋律が響いた。

満員の客でにぎわっていた昭和30年代の「浅草追分」=服部章代さん提供

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 オープン間もない「和ノ家(かずのや) 追分」は、昨年暮れに六十一年の歴史に幕を下ろした老舗の民謡酒場「浅草追分」の料理人だった服部和城(かずしろ)(53)、若おかみだった章代(52)夫妻が立ち上げた。和城の母で大おかみだった光子の死を機に閉店。次の道を考えた時、民謡界の将来が見通せない現状に「民謡なしの小料理屋をしたほうが楽かな」とも悩んだが、「福居典陽(ふくいてんよう)」の名で津軽三味線奏者としても活動する章代が「(民謡界の)若手を育てる使命もあるし、お客さまの応援も多く寄せられた」と民謡酒場で再出発することに決めた。

 従業員は、第一線の民謡歌手や三味線奏者を目指す若手十二人。全国コンクールの優勝者も多い。店で働きながらCDのメジャーデビューや、興行元からの公演依頼をつかみとり、活動を広げていくのが目標だ。三味線などの邦楽器演奏と歌唱を鍛える人もいる。

 橋本大輝(ひろき)(34)は高校卒業後、三味線奏者を目指して山口県から上京、浅草追分で住み込みで働いた。店のステージで歌唱が評価され、NHKのテレビやラジオの民謡番組にも折々に出演する。「聴く人にエネルギーを与えられる歌い手になりたい」と志を語る。

 熊本市出身の本田浩平(31)は中学時代にテレビで見た津軽三味線デュオ「吉田兄弟」に憧れてこの道に入った。店で働きながら、昨年の津軽三味線コンクール全国大会で優勝を果たした。「ステージと客席に境界がないのが民謡酒場の魅力。民謡を知らない人も気軽に来て、僕らに話し掛けてほしい」と張り切る。

 愛好者団体「民謡酒場を愛する会」の小林寛寿会長(86)によると、民謡酒場の最盛期は一九六〇年代半ば。集団就職などで上京した地方出身者が、古き良き日本の暮らしと心情を伝える民謡に、故郷のにおいを求めて集まった。「今はいろいろあるけれど、昔は地方を代表するものが民謡だった」。七〇年代のブームの火付け役も民謡酒場。スターも巣立った。しかし、愛好者の高齢化や嗜好(しこう)の多様化が進むにつれ店舗は減り、「今は都内に十店もない」という。

 衰退傾向が続く民謡にあって酒場の今後は−。「浅草追分」からの常連客で、都内で建築会社を営む森田敏社長(69)は「民謡は今でも役に立つよ」と力説する。二十歳の頃、赴任先で覚えた秋田音頭を二年ほど前に出張先のキルギスで歌い「すごく喜ばれた。今の歌はカラオケがなきゃ歌えないしね」と意義を語る。特有の節回しや合いの手などは世界も注目していることを実感した。

 唯一の民謡専門誌「みんよう春秋」の鈴木まさよ代表は「集団就職の時代と現代を比べずに、今の社会情勢の中で伝統を守りつつ、若い人が新しい形をつくってくれることを期待したい」と、民謡の灯と重ね合わせる。民謡酒場とゆかりが深い大御所歌手の原田直之は「生の民謡を本当に目の前で、気軽に聴ける場。時代が変わっても、続いていってほしい」とエールを送る。

 一日の開店から間もなく一カ月。「和ノ家」は連日盛況という。外国人観光客の来店も多く、英語メニューも役立っている。服部夫妻は順調な出発に胸をなで下ろしつつ「民謡を愛してくれる人々の思いを継いで、盛り上げていきたい」と意気込んでいる。

全国各地の民謡などが披露されるライブ

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◆「吉田兄弟」の兄・良一郎 歌い手のスター出てきて!

「吉田兄弟」の兄・良一郎

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 民謡酒場から巣立った歌手や奏者は多い。1999年にデビューし、若者らに津軽三味線ブームを巻き起こした「吉田兄弟」の兄の良一郎(41)も「浅草追分」で修業した。青雲の志の日々を振り返った。

 −「追分」との縁は

 5歳で三味線を始めて、高校を卒業したら「三味線で生きていく」と決め、故郷の北海道登別市から上京した。全国大会で出会った先輩の紹介で追分に入り、3年間働いた。

 −店では唄の伴奏もしていた

 当時は北海道と東北の民謡ぐらいしか知らず、急に「九州の民謡を」と要望されても弾けず、歌っていた方が(怒って)無言でステージを降りちゃうこともあった。他の奏者がいない時はドキドキ。個人的にしんどい時期でもあった。大おかみ(服部光子さん)には「百の練習よりも一のステージ」と励まされた。

 −客にとっての民謡酒場とは

 日本の楽器を生で聴ける場所は限られていて、それを気楽に聴ける場所だと思う。生の音色の響きや音の揺れは、テレビなどではなかなか分からない。

 −民謡界に望むことは

 歌い手のスターが出てきてほしい。伊藤多喜雄さん、金沢明子さんらが民謡界を盛り上げたのは40年ほど前。個性を持った若い歌手が登場すれば、三味線も含めて民謡界が盛り上がる。民謡酒場から出てきてくれたらうれしいですね。

 

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