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【伝統芸能】

幻の能流派、生きていた 春藤流 宮城で伝承、児童に指導も

 武家社会で権力者に重用された能楽は明治に入ると支えを失い、廃絶の憂き目をたどった流儀(流派)も出た。しかし、時を経て消えたはずの流儀が意外な土地に息づいていることも分かってきた。その一つ、シテ(主役)の相手役として欠かせないワキ方の一派だった春藤流(しゅんどうりゅう)の謡が宮城県北部で、地域住民によって受け継がれていた。“幻の流儀”はどのようにして生き残っていたのか−。 (藤浪繁雄)

 六月中旬、宮城県大崎市立大貫小学校。五年生十九人が授業の一環で、謡曲「高砂」を歌っていた。定期的に指導しているのは、地域住民による「新田ノ目(にたのめ)春藤流謡曲保存会 鉢の木会」のメンバー。山ノ内仁美(まさみ)会長(80)は「幼少期から父の謡を聴いて育ち、自分も当たり前のように取り組んだ」と話す。高らかに歌っていた及川大翔(ひろと)さん(10)は「高砂に込められたおめでたい意味も考えた。将来(春藤流を)受け継ごうかなあ」と笑う。

 授業は、同県出身の田村にしき鎌倉女子大准教授が「謡の伝承は音楽科教育にも通じる意義がある」として、研究も兼ねて続けている。東京芸術大大学院生だった十年以上前から研究に取り組み、地域では貴重な文化財としての意識も芽生えるようになった。

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 春藤流は大崎市内の農業地帯の旧田尻町大貫地区で継承されてきた。田村准教授の研究などによると、江戸期に仙台藩主が能楽に力を入れ、今も活動するシテ方の金春流などの能が盛んに行われていた地域だった。金春の座付きだった春藤の謡が残ったのは、明治期に武士が農業に転じて能楽が庶民にも広がり、結婚式や棟上げ式など集落の儀式に欠かせない芸事として定着していったため。当時の謡本も現存し、厳冬の農閑期に若者は連日の厳しい「寒稽古」に参加し、謡をたたき込まれたという。

 生活習慣の激変もあり、結婚式などで披露する機会は減ったが、鉢の木会の三神祐司(ゆうし)事務局担当(73)は「集落の新年会では今も『高砂』『養老』『春栄(しゅんえい)』を披露している」と話す。

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 この日は特別授業で、東京のプロ能楽師が能狂言のいろはを伝授した。狂言方和泉流の奥津健太郎と訪れたワキ方下掛(しもがかり)宝生流の安田登は「春藤は完全に途絶えていたと思っていたので、残っているのはすごいこと」と驚き、「自分の芸の型に春藤流が残っているので感慨深い」と明かす。

 安田の師、故鏑木岑男(みねお)(一九三一〜二〇一七年)は春藤流の「宗家代理」の血筋だった。一八九三年、宗家の死去後、流儀は絶えたが、門弟だった鏑木の家系が「宗家代理」として芸を継承。しかし、岑男の父建男が一九四五年八月に死去し、キャリアが浅い岑男は下掛宝生流に移り、途絶えてしまった。ところが、安田によると「師匠には春藤の型が体に染み込んでいた」。自身も指導を受けた仕舞や謡にその名残が感じられるという。岑男はあまり春藤流のことを語らなかったというが、安田は謡の声の大きさなどに「独特の型」を感じ取った。

 七〇年代に発足した鉢の木会は、地域の儀式で謡を披露するほか、文化祭などの舞台でも発表している。メンバーは高齢化などで減り現在は七人、各地の民俗芸能と同様、担い手不足に悩む。しかし、三神事務局担当は大貫小で指導を続け「児童やその保護者らが継承を意識してくれたら」と期待を寄せる。課題はあるが「プライドを持って活動している」と胸を張った。

 

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