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【連載小説「本心」】

本心<58>

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第五章 “死の一瞬前”

 それでも結局、この制度が、多少の軋(きし)みを顕在化させつつ、比較的安定して運用されているのは、通常、関与した医師が、近親者の抵抗に対して、より周到な配慮を行っているからに違いなかった。

 しかしそう思うと、むしろ僕の自問こそ、もっとありきたりなかたちを取るべきではあるまいかという気がした。つまり、なぜ僕は、こんな風に嫌われるのだろうか、と。

 初めてこの言葉を胸の裡(うち)で呟(つぶや)いたのは、小学校に入ってすぐのことだったが。……

「それで、――今日はどうされました?」

 茶を一口飲んで、彼は背もたれに身を預けながら訊(き)いた。

「母の安楽死を思い止(とど)まらせたことは、後悔していません。ただ、母がなぜそうした思いを抱くに至ったのかを知りたいんです。前に伺った時は、守秘義務として教えていただけませんでしたが。」

「あなたには、何と言ってたの?」

「……もう十分生きたから、と。」

「そう仰(おっしゃ)ってましたよ、ここでも。」

「それを、真に受けるんですか?」

 反論の言葉が、直接、人格に触れたかのように、過敏な反応を示す人間がいる。そうした無防備さを、一生許されたまま死ぬ人が、一体、何に守られているのかを想像することは、いつでも僕の自尊心を磨(す)り減らした。金か、家柄か、――考えたくないことだった。

「あなたはさ、お母さんの生涯最後の決断を信じないの?」

「母と僕の生活、……ご存じでしょう? 『もう十分』って言葉、満足感から出たと思いますか?」

「それは、私の詮索することじゃないなあ。違いますか?」

「詮索じゃなくて、確認すべきでしょう?」

「それはしてますよ。当たり前でしょう? とにかくね、あなたのお母さんの安楽死の意思は、とても強いものでしたよ。経過観察中も、一度も揺らいだことがなかったし、精神的にも、非常に安定していました。認可を与える上での問題は、家族の理解という項目だけでしたからね。」

「母は安楽死なんて、それまで考えたこともなかったんですよ。この病院に来るようになってからですよ。先生は、母に何を話したんですか?」

(平野啓一郎・作、菅実花・画)

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