第五章 “死の一瞬前”
富田は、呆(あき)れたような顔で僕を見ていた。ガラスのテーブル越しに、僕は靴下にサンダルを履いた彼の足の指が、苛立(いらだ)たしげにピクピク動いている気配を感じた。
「以前にも説明しましたよ、……あのね、安楽死をこちらから提案するようなことは、絶対にないんですよ。うちの病院だけじゃなくて、それは、世間のどこの病院もそう。だって、意味がないでしょう?」
「母は、もう亡くなってるんです。安楽死でもありませんでした。だから、全部、本当のことを教えてほしいんです。母は、ここで、自分から安楽死を願い出たんですか?」
「そうですよ。ブロックチェーン上の動画も、一緒に確認したでしょう?――基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない? あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」
「どうしてそれが、母の本心だって、先生にわかるんです? 違うでしょう? 母は本当は、もっと生きたかったんです。だけど、今の世の中じゃ、そんなこと、言い出せないじゃないですか。母の世代は、ずっと将来のお荷物扱いされてきて、実際そうなったって、社会から嫌悪されてる。安楽死を美徳とする本だって溢(あふ)れ返ってる。『もう十分』と、自分から進んで言わざるを得ない状況は、先生だってよく知ってるでしょう?」
「私は、そういう思想的な問題には踏み込みませんよ。医師ですから。」
「それは、公共的な死生観もあるでしょう?国が今みたいに切羽詰まった時代には、長生きをそのままは肯定できないだろうなあ。次の世代のことを考えて、死に時を自分で選択するというのは、私は立派だと思いますよ。」
僕は、時間を体から抜き取られてしまったかのように固まっていたが、心拍の激しさには、哄笑的(こうしょうてき)なところがあった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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