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【連載小説「本心」】

本心<61>

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第五章 “死の一瞬前”

「お母さんは、このあと十五年以上、自分で長生きしてお金を使うことと、子供にそのお金を遺(のこ)すこと、どっちが幸福かを考えて、安楽死を決断したんだ。私にも、子供がいますけど、理解できますよ、その心境は。」

 僕は、富田が真顔でそう言うのを見ていた。頬の震えが止まらなくなって、少し俯(うつむ)いて、右手で強く拭った。

「母が、自分でそう言ったんですか?」

「直接は言いませんよ。けど、彼女が説明する状況を総合すれば、そうとしか考えられないでしょう? 残念だけど、全然、珍しい話じゃない。あんまりね、安楽死っていうのは、遺族が言いたがらないから、表向きには病死ってされてることも多いけど、子供の将来を思ってというのは、多いんですよ、現場にいると。」

「先生は、……そんな考えで母に安楽死の認可を出したんですか?」

 富田は、無意識らしく、右手の肘を背もたれの上にかけた。

「子供だから、一番、お母さんの気持ちを理解していると思いたくなるのもわかるけどね、家族だからこそ、言えないこともあるぞ。あなたも、だから、私に話を聴きに来てるんじゃないの? それで、私の話を聴いて、それは違うって否認するっていうのは、混乱してるなあ。まあ、わかるけど。」

「お金を遺してもらうことなんかより、母がいてくれた方が、僕にとっては遙(はる)かに大きな喜びだったんです。それは母も知ってるし、僕のためを思って、安楽死を選んだなんて、……そんな単純な話のわけないでしょう?」

「複雑だったら、現実的な感じがするの?」

「母は、先生には、そうとでも言うしかなかったからじゃないですか? それは、僕が知りたい、母の本心じゃないです。もっと、……」

 僕は、そう言いかけたが、これ以上、問い詰めても無意味なことは明らかだった。

 母はここに、別段、人生相談に来ていたわけではなく、ただ、安楽死の認可を求めに来ていたのだった。そして、富田が、今し方のような理屈で納得しているのなら、母は、それ以上のことは言わなかっただろう。その方が、目的に適(かな)うのだから。

 富田は当然、僕の言葉が途切れたことで、心理的な余裕を恢復(かいふく)した。時計に目を遣(や)って、そろそろ、という表情をしてみせながら言った。

(平野啓一郎・作、菅実花・画)

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