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【連載小説「本心」】

本心<63>

写真

第五章 “死の一瞬前”

 富田は、ゆっくり一度、頷(うなず)いた。

「早いね。だけど、結局、寿命予測よりもずっと早く、事故死してしまったんだからね。お母さんの考えていたことの方が、正しかったんじゃない?」

「……。」

「あなた、藤原亮治って小説家の本、読みましたか?」

「いえ、……」

「どうして? お母さんが愛読してたでしょう? だから読まないの?」

「そういうわけでもないですけど、……たまたま。」

「お母さんの死生観を知りたいんだったら、私の影響を勘ぐるより、藤原亮治の本を読んだ方がいいでしょう。彼の『波濤(はとう)』という小説が好きでしたね、お母さんは。安楽死についても書かれてますよ。」

 僕は、その助言に虚を突かれた。母が藤原亮治の本を愛読していたことは知っていたが、彼の本を安楽死と結びつけて考えてみたことはなかった。

 僕は、面会の礼を言い、席を立った。富田は、最後に、

「まあ、辛(つら)いでしょうが、がんばんなさい、あなたも。それがお母さんの思いに報いることだよ。」

 と立ち上がって、疲れたというより、腹が減ったという風な顔で見送った。

      *

 富田との面会のことを、僕は帰宅後、<母>に話さなかった。しかし<母>は、驚くべきことに、僕の表情から、何かあったらしいと察して、

「どうしたの、浮かない顔して? 悩んでることがあるなら、お母さんに言って。」

 と優しい目で僕を覗(のぞ)き込んだ。

 僕は、心配されたことが嬉(うれ)しくて、

「ありがとう。でも、大丈夫。」

 と礼を言った。自然と笑顔になったが、<母>がいなければ、今日一日、僕の顔に生じることのなかった表情だった。高額だったけれど、それだけでも、いい買い物をしたと思うべきなのだと、僕は自分に言い聞かせた。

 僕の表情は、事前に動画や写真で<母>に学習させていて、あとで知ったのだが、野崎と交わしたやりとりでさえ、その材料に供されていた。

(平野啓一郎・作、菅実花・画)

※転載、複製を禁じます。

 

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