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【1964年からの手紙】

後悔しない2年 願う 陸上三段跳び代表・桜井孝次さん

開幕直前のけがで思うような跳躍ができなかった陸上三段跳びの桜井孝次さん=1964年10月16日、国立競技場で

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 1964年東京五輪のオリンピアンが次の世代に思いをつなぐ「1964年からの手紙」。陸上三段跳びの桜井孝次さん(82)は主将を務めた62年ジャカルタ・アジア大会で金メダルに輝き、2年後を見据える日本選手団を鼓舞した。くしくも今夏は2度目のジャカルタ・アジア大会が開かれ、再び東京五輪への道が重なった。お家芸の種目を託されたリーダーは前回大会の歩みを振り返り、「後悔しない2年間を過ごしてほしい」と語る。 (松山義明)

 <戦前、日本の三段跳びは五輪3大会連続で金メダル。得意種目だった>

 日本選手で初めての五輪金メダリストが1928年アムステルダム大会の織田幹雄さん。32年ロサンゼルス大会は南部忠平さん、36年ベルリン大会の田島直人さんと続きました。織田さんがおっしゃるには、畳の生活が良かった。何度も立ち座りを繰り返すので足腰が強い。ホップ、ステップ、ジャンプとリズム良く跳ぶ技術もあった。欧米人は最初に大きく跳べたが、後が続かない。体が大きいから、かかとへの衝撃が強く、けがの問題もあったのでしょう。

 <アジア大会は日本選手団の主将でもあった>

 開会式翌日、競技初日に三段跳びは行われた。チームを勢いづけるために勝つことが役割だと思っていました。強化目的の欧州遠征では勝てても、大事な試合を落とすことがあった。東京五輪の開催が決まった翌年の60年ローマ五輪も予選落ち。何としても金メダルを取って東京につなげたかった。優勝できて主将としても格好がつきましたよ。

 <東京五輪の陸上でマラソンと並び期待が大きかった>

 マラソンは36年ベルリン五輪で孫基禎さんが金メダル。東京五輪にも出た寺沢徹さんが前年に世界記録を出し、他にも有力選手がたくさんいました。三段跳びもお家芸と言われていましたが、東欧勢と差が出始めていたころ。ローマ五輪金メダルのシュミット(ポーランド)が持つ世界記録は17メートル03。それより日本記録は60センチほど下でした。ただ私はこのシーズン、自己ベスト16メートル18に近い記録を安定して出していた。開幕前の世界ランキングを見る限り、いつも通りに跳べさえすれば入賞できる自信はありました。

 <まさかの予選落ち。日の丸を背負う重圧があった>

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 気負いはありません。刀を研ぎすぎて刃こぼれした、とでも言えましょうか。開会式の5日前。サブトラックで練習中、左太ももを肉離れしてしまった。けがはしないという過信がいけなかったのかな。10月16日の試合当日まで、ほとんど動けない。現役とはいえ若い選手に指導する立場。誰にも相談できません。痛くて歩けないなんて生まれて初めて。本当に参りました。

 痛み止めを注射して予選に臨みましたが、感覚が全然違って力が抜けたような跳躍しかできなかった。15メートル59で予選落ち。シュミットが2連覇し、日本選手は誰も表彰台に立てなかった。入賞ライン(当時6位)は16メートル15だっただけに、応援してくれた人たちに申し訳なかったです。

 <今年のアジア大会で日本勢は陸上も活躍した>

 現在は中国が参加し、中東のアフリカ系選手も多く、簡単に勝てる状況ではない。そんな中でも良い結果を出している。この勢いを大切にしてほしいですね。願うのは私のようにけがだけはしないこと。蓄積してきたものがゼロになってしまう。ときには練習にブレーキをかける決断も必要になってくるでしょう。

 <監督や役員で五輪金メダリスト誕生を間近で見た>

 マラソンの高橋尚子、野口みずき、ハンマー投げの室伏広治。指導者に恵まれたのもあるけど、ただ言いなりになっていたのではなく、自分の信念、考えを持っていた。私も現役時代から海外遠征で現地の選手や役員とたくさん交流したことが、引退後の活動に生きました。大事なのは競技を通じて人生経験を豊かにすること。それを踏まえて東京五輪を目指してください。

<さくらい・こうじ> 1936年2月18日生まれの82歳。東京都北区出身。早大から日立製作所。五輪は56年メルボルン、60年ローマ、64年東京と3大会連続出場。最高順位はメルボルンの7位。96年アトランタ、2000年シドニーは陸上代表監督。日本陸上競技連盟専務理事、東京マラソン財団理事長などを歴任。

1962年ジャカルタ・アジア大会の金メダルを手にする桜井さん=茨城県取手市で

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◆62年アジア大会 「スポーツと政治」に直面

 スポーツは政治と無縁でいられるか−。そんな命題を突きつけたのが1962年のアジア大会だった。開催国インドネシアが政治と宗教の思惑から台湾とイスラエルの入国を拒否。これを問題視した国際陸上競技連盟が大会に参加すれば除名する方針を打ち出し、日本の世論は「アジアのリーダーとして出場すべき」「東京五輪に影響する恐れがある。出場してはいけない」と割れた。

 騒動の最中に陸上の代表チームは渡航。開会式直前まで幹部が調整に追われ、選手団主将の桜井さんも「ジャカルタで結果を出すため、みんな準備してきた」と会合のたびに選手の気持ちを代弁した。

 最終的に日本を含む17カ国・地域が参加。日本は金74個、銀57個、銅24個のメダルを獲得。そのうち陸上は金18個、銀19個、銅9個だった。桜井さんは「日本が出場しなければ大会は成り立たなかった。そういう意味でも良かった」と振り返った。

 ただ冷戦時代の不安定な国際情勢の中、スポーツでも独自路線を選んだインドネシアは64年東京五輪に参加しなかった。

 

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