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【1964年からの手紙】

弟子へ 福島に元気を 2人乗り自転車代表・班目秀雄さん

東京五輪で自転車タンデム・スクラッチに臨む班目秀雄さん(左)と手嶋敏光さん=1964年10月21日、八王子自転車競技場で(横尾双輪館提供)

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 1964年東京五輪で、2人乗り自転車のスプリント種目「タンデム・スクラッチ」に出場した班目秀雄さん(75)は、競輪選手時代から拠点の福島県白河市で、150人以上の選手らを指導してきた。東日本大震災では地元の練習拠点が被災。「復興五輪」を掲げる2020年東京で、散り散りになった選手たちの活躍を願う。 (兼村優希)

 <日大3年で迎えた東京五輪。独特のかすれ声で振り返る口ぶりは重い>

 特別強くも弱くもない三番手くらいの選手でした。フルエントリーできた開催国枠で、お情けで出られたって感じかな。五輪前の日豪対抗大垣大会(岐阜県)で、メルボルン五輪金メダルのオーストラリアペアに勝ち、ちょっと自信を付けていました。

現在も選手らを指導する自宅近くの練習場で当時を振り返る班目秀雄さん=福島県白河市で

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 <予選でハンガリーに敗れ、敗者復活戦も敗退。最初で最後の五輪はあっけなく終わった>

 記憶はおぼろげ。雨がよく降り、試合も一日延びちゃった。体の大きい手嶋敏光さんが前でレースをコントロールし、私は後ろでエンジン役。国際経験も少なかったし、到底及びませんでした。予選のハンガリーのタイムは10秒97。11秒台の自分たちには、信じられない記録だったね。

 今思えば、競技に対する考えが浅かった。何となく出たというと怒られちゃうけど、自分が代表監督だったころくらいの気持ちで出ていたら、結果は違ったんだろうな。

 <卒業後、競輪の道へ。家具屋だった実家の倉庫に練習器具をそろえると、地元の選手や高校生が集まった>

 大学の先輩から強く誘われ、23歳で競輪選手になりました。地元に練習相手がいなくて、一日中ロードを走っていたね。トラックの練習をするには(100キロ近く離れた)いわき市まで出ないといけない。27歳くらいのとき、弟の隆雄や高校の後輩もこの世界に入ってきたので、一緒にトレーニングできるよう自宅にローラー台などを置いて小さな練習場を造りました。多いときは20人くらい来ていて、今は4人かな。1995年福島国体に向け、93年には隣の泉崎村にトラック施設の「泉崎国際サイクルスタジアム」ができ、練習環境は格段に上がりました。

 <自転車競技の一大拠点となった福島県。2011年3月11日、東日本大震災が襲った>

 私はちょうど、パラの世界選手権に帯同してイタリアにいました。だから、直接地震は体感していない。朝、コーチが「監督、日本が大変なことになって…津波で」って血相を変えて来ました。開会式ではみんな黙とうをしてくれました。

 慌てて家族に電話したら、自宅は内陸で地盤が強く、大きな被害はなかった。でも、さらに福島第一原発の事故でしょ。CNNはずっと水素爆発の映像を流していたね。うちも原発から80キロくらい離れているとはいえ、やっぱり不安ですよ。帰国してもすぐにオランダで世界選手権があってね。新幹線が動いておらず家に帰れないまま、また出国しました。帰れたのは震災から2週間以上あとでした。

 <泉崎のスタジアムも走路の一部が損壊していた>

 やっと帰ってきたら、選手たちが「泉崎が陥没して、競技場が使えない」って言うんですよ。見に行ってぼうぜんとしました。あちこちのアスファルトが地割れして陥没だもんね。特にコーナー部分がひどかったな。直すなら全面改修。こりゃ大変だべ。拠点を外に移す選手も出始めました。練習環境もそうだけど、一番は放射能ですよ。彼らも生活があるし、小さい子どももいたからね。この先どうなるか分かんないもんな。引き留めようがない。なんとか、県などの予算が付いて13年に全面改修できました。高校生や一部の選手は残っていたから、彼らにとっては良かったですね。

 <東京五輪が再び巡ってくる。『復興五輪』を理念に掲げて>

 震災から数カ月後に(甚大な被害が出た太平洋沿いの)浜通りを見に行きました。津波にさらわれて、町がなくなっているんだもんな。まだ完全ではないだろうけど、なんとか復興して、東京五輪では野球とソフトボールの会場になる。震災を経たこの町が、少しずつ立ち上がってきた。五輪をできるまでになったんだと感じてくれる人はいるでしょうね。

 五輪は結果が全て。まな弟子の中にも東京五輪に出場が有望な選手もいます。メダルを取って、地元を元気にしてほしいね。自分なりの目標をしっかりと定めて懸命に進めば、私とは全く違う結果を生むはずです。

◆代表も指揮 アテネで銀

 1964年東京五輪の自転車代表は、7種目でメダルゼロに終わった。96年アトランタ五輪で解禁されるまで、プロ選手の出場は認められず、メンバーの大半は大学生だった。班目さんは五輪後「実業団なんてないし、自転車を続けるために競輪選手になれば五輪は出られない」と思い悩んだ末、プロの道を選んだ。

 引退後は指導者に。新種目に「ケイリン」が採用された2000年シドニー五輪では、日本代表監督に就任。コーチを務めた04年アテネ五輪で、まな弟子の伏見俊昭らがチームスプリントで銀メダルを獲得した。五輪にはこのほか、福島の教え子から、バルセロナに長男の真紀夫、ロンドンに新田祐大を輩出。アテネでは、スピードスケートと二足のわらじだった大菅小百合も指導した。

 20年東京に向け、日本の自転車はトラック種目を中心に強化が進む。世界選手権(ポーランド・2月27日〜3月3日)では新田が男子ケイリンで銀メダル。昨年の同種目で銀だった河端朋之に続く快挙だった。ワールドカップ(W杯)では脇本雄太が2戦優勝するなど躍進が期待される。班目さんは「1年半後を見据え、しっかりとピークを合わせて」とエールを送る。

<まだらめ・ひでお> 1944年1月12日生まれの75歳。福島県白河市出身。日大在籍中、64年東京五輪に出場し、予選敗退。67年に競輪デビュー。2181走中440勝し、98年に引退。2000年シドニーは自転車代表監督、04年アテネはコーチ、08年北京パラリンピックは自転車代表監督。現在は白河市体育協会会長。

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