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【ドナルド・キーンの東京下町日記】

「日本人だから」戦争や憲法語る ドナルド・キーンさん死去

朝食後に新聞を読むのが日課のドナルド・キーンさん=2014年9月、東京都北区で

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◆12年10月〜昨年12月連載

 東京都北区在住のドナルド・キーンさんが、暮らしの中で感じたことをつづる連載「東京下町日記」は、キーンさんが日本国籍を取得して七カ月後の二〇一二年十月に始まった。昨年二月に、ご高齢のキーンさんの体調を考えて、随時掲載としたが、それまでは月一回の連載。二十四日に亡くなるまで、六十九回続いた。「平成は日本の転換期」と見出しが付いた昨年十二月二十四日付の朝刊が連載の最終回となった。

 連載のきっかけは、日本国籍取得直後のキーンさんの一言だ。「外国人の時はお客さんなので遠慮したが、日本人なのだから言いたいことを言う」。それなら、紙面を通じて言ってもらおうと依頼した。連載第一回は、大阪市の橋下徹市長(当時)が打ち出した、伝統芸能「文楽」への補助金削減騒動がテーマだった。

 文楽を知らずに「面白くない」と決め付けた橋下氏に「文楽は日本が世界に誇る文化」とたしなめた。

 米海軍の語学士官だった太平洋戦争時の秘話を打ち明けたこともあった。沖縄上陸作戦の一員として乗船していた軍艦に神風の特攻機が突っ込んできたことや、日本人捕虜収容所で、捕虜のために音楽会を開いたこと。そして、収容所で知り合った元捕虜との再会。

 作家との逸話もあった。谷崎潤一郎が「細雪(ささめゆき)」の英訳を「源氏物語」の英訳で知られるアーサー・ウェイリーに依頼したという裏話。三島由紀夫が自決する三カ月前に、キーンさんとの「最後の晩餐(ばんさん)」を楽しんだこと。三島が望んだノーベル賞を川端康成が受賞した舞台裏にも触れた。

 自身の近況も話題にした。二〇一三年には伊勢神宮(三重県伊勢市)で二十年に一度の式年遷宮への四度目の参加、そして毎年三月には東日本大震災の被災者への思いもつづった。歌手の沢田研二さんがキーンさんのためにバラード曲を作詞したことも紹介した。

 独自の視点から戦争と平和憲法、原発、五輪報道なども話題に。多くの読者から共感の手紙が届いた。出版依頼も相次ぎ、養子の誠己さんのエッセーと合わせた父子共著「黄犬(キーン)ダイアリー」(平凡社)が出版された。 (鈴木伸幸)

◆日本文化 最良の理解者

 ドナルド・キーンさんが日本に関心を持ったきっかけは、英訳の「源氏物語」だった。この逸話には、見逃せない側面がある。

 「源氏物語」をめぐる評価だ。今でこそ「世界最古の長編小説」などと尊ばれるが、明治以降、特に戦時中は、天皇らの生々しい愛憎を描いているため「不敬の書」とされた。日本人でさえ見失っていた真価をキーンさんは見抜き、終生にわたり説き続けたのだ。

 「源氏物語」だけではない。キーンさんが来日した戦後の日本は、敗戦の痛手が癒えず、欧米発の圧倒的な文化とモノに席巻されていた。古来の文学や芸能は「古くさい」と見なされた。俳句は「第二芸術」と呼ばれ、能や謡曲をたしなむ層は激減した。

 そんな中、キーンさんは戦勝国の出であるおごりは一切見せず、芭蕉や西鶴をたたえて英訳し、能や歌舞伎の美を海外に紹介した。さらには自らも狂言の舞台に立ったのだった。

 一方、谷崎潤一郎や川端康成など、同時代の作家を英語圏に紹介する労も惜しまなかった。川端がノーベル賞を得て日本文学が注目を浴びたのは、同じく米国出身の日本学者、故エドワード・G・サイデンステッカーさん(二〇〇七年没)とキーンさんの尽力によるところが極めて大きい。

 かつて欧米では日本への偏見が強く、キーンさんは「なぜ日本の文学など研究するのか」と言われたこともあるという。そうした声を意に介することなくキーンさんは日本とその文化の最良の理解者であり続け、ついには日本への見方を変える一人となった。

 近年は、東日本大震災の後に日本国籍を取得したことが盛んに報じられた。しかしそれと同じほどキーンさんの人となりをよく伝えるのは、翌一二年、橋下徹大阪市長(当時)が文楽の補助金をカットしようとした折、正面切って反対の論陣を張ったことだ。

 二つの行動に共通するのは、苦境にある被災者を思いやり、衰退の危機に立つ文楽を守ろうとする深い愛情だ。日本を心から愛し、多くの日本人に愛されたキーンさん。「鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)」の見事な生涯が、いま閉じられた。 (三品信)

 

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