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【長久保宏美のリポート福島】

<大野孝志>30周年前に解体したうどん店 再開望みつつ避難7年超

店ののれんを見る渡辺さん夫妻=福島県楢葉町で

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 東京電力福島第一原発事故で、全町民が避難を強いられた福島県富岡町の国道6号沿い、地元に親しまれたうどん店「なべや」が、営業を再開できないまま解体された。今年、三十周年となるはずだった。店主の渡辺洋さん(67)は「事故直後は、再開へのやる気があったのに」と悔しさをにじませる。七年超の避難中に、境遇が大きく変わった。

 店があった場所は今、雑草に覆われた空き地になっている。借地契約が切れ、更地にして地主に返すため、避難指示が解除された後の昨年六月、建物を解体した。洋さんは解体作業に立ち会わず、時々様子を見に行くことしかできなかった。つらくて、見ていられなかった。

 洋さんと妻みどりさん(55)で切り盛りしてきた。原発事故の避難で、休業。避難中も、いわき市の仮設住宅から何度も店に行き、店内を片付けた。少し雨漏りした程度で、いつでも再開できる状態にしていた。だが、事故から二年たった頃、野生動物が入ったらしく、店内が荒らされていた。「もう、だめだ」

 洋さんは富岡町の南隣の楢葉町出身。高校を卒業後、電機メーカーに就職したが、六年で倒産した。「手に職を」と東京の中華料理店や豚カツ屋で修業を重ね、うどんチェーンの店長を務めた。麺打ちと経営手法を身に付けると、三十六歳で楢葉町の実家に戻り、伯母が営んでいたドライブインを改装し、独立した。

 ボリュームのある手打ちうどんと、肉の柔らかさにこだわったカツ丼が好評だった。「価格設定を間違えちゃった」とみどりさんが苦笑いするほどの質と量。昼時には三十席がすぐ埋まった。

 近くの福島第二原発や広野火力発電所に勤める人、長距離トラックの運転手、地元の住民らでにぎわった。懐かしい客が「独身時代に食べた味を、カミさんにも食べさせたくて」と老夫婦で訪れることが増えた頃、原発事故が起きた。避難生活の間も、常連から「また食べさせて」と、何度も声を掛けられた。

解体中の建物=2017年6月、同県富岡町で(渡辺さん提供)

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 事故当時五十九歳だった洋さん。「まだまだやれる」と避難先のいわき市内で、店舗用の物件を探し歩いた。だが、家賃が高く、手が出なかった。避難指示の解除まで待って、傷んだ店を再開しようにも、衛生面で問題がないよう、全面的な改装が必要だった。

 事故の賠償や商工会からの補助で資金は足りるのか。投資した分を回収できるほど、この先、長く働けるだろうか。東京で暮らす一人娘(32)に迷惑をかけたくない−。悩みながら避難生活を送るうちに、七年が過ぎた。

 「この年齢で、また一から始めるの? ちょっと待ってよ」。長年麺を打ち続けて、腰を痛め、両手はけんしょう炎に。不安ばかりが先に立つ。店の目の前に除染廃棄物の焼却施設ができ、水蒸気がもくもく出ている。近くの二つの原発の廃炉作業が安全に進むかどうかも気掛かりだ。

 仮設住宅の入居期限を迎えた今年三月末、夫妻は楢葉町の洋さんの実家に戻った。避難中に父親=当時(87)=を肺炎で亡くし、同居の母親(89)には同じ思いをさせまいと、介護が生活の中心になった。最近は知人の店の再開や、新たな開店の知らせが耳に入る。洋さんは「しんどい」と言いながら「完全にあきらめたわけでもねぇんだ」とも。のれんは、自宅の物置にしまってある。 (大野孝志)

 

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