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【長久保宏美のリポート福島】

悲劇絶対に風化させない 原発事故後の現場撮影続ける

線量計で放射線量を確認しながら取材する飛田さん=いずれも福島県浪江町で

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 福島県三春町在住の写真家飛田晋秀(ひだしんしゅう)さん(71)は、東京電力福島第一原発事故で住民が避難した町や、その後の被災地の様子を写真に記録してきた。全国各地で写真展や講演も続けている。なぜ、放射線量の高い場所に入ってまで、撮影を続けるのか。飛田さんの取材に同行した。

 取材前日、飛田さんから電話があった。「明日は気温が高くても、長袖の服を着てきてください。あと、顔をぴったり覆うマスクも」

 福島市と浪江町を結ぶ国道114号は、帰還困難区域を通る。昨年九月から車で通れるようになったが、川俣町と浪江町との境付近から常磐道浪江インターチェンジ付近まで、放射線量が特に高い。

 浪江町に入る辺りで、ガードマン三人が立っていた。飛田さんが声をかける。「ご苦労さんです。ここに何時間いるんですか」。「三交代で二十四時間です」。詰め所のような小屋はあるが、夜は真っ暗だろう。飛田さんは「大変ですね」と言いながら、おもむろに周りを撮り始めた。

 道路脇に英語の立て看板があった。「ここは放射線量が高い場所なので、できるだけ速やかに通過してください」

「高放射線エリア、できるだけ早く通過してください」と英語で記された看板。道路中央は取材中の飛田さん

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 浪江町内に数キロ入ったところで、飛田さんがカメラと線量計を持ち出した。「ここはまだ、線量が高い所があると思うよ」。下津島地区の高校の自転車置き場。腰の位置で毎時四・〇五マイクロシーベルト。東京都心の四十倍以上を示した。

 飛田さんはもともと、鍛冶や和菓子などの職人を撮影してきた。二〇一一年三月、東日本大震災直後に福島県いわき市の友人を訪ねた。津波で知人ら八人が亡くなったと、涙ながらに話してくれたという。そして、その友人から「こんな悲劇を絶対に忘れ去られないようにしてほしい」と言われた。

 ボランティアとして地元の三春町の体育館で、避難した人たちの世話をしていると、避難住民から「一緒に自宅に行ってみましょう」と言われた。写真家として行かないわけにはいかなかった。一二年一月、初めて富岡町と大熊町に入った。無人の町で信号機だけが動いていた。放射線量は富岡町の夜ノ森駅前の住宅で毎時一〇・二マイクロシーベルトもあった。

 これまでに、避難指示区域を中心に十二の市町村で撮影。昨年五月「写真集 福島のすがた 3・11で止まった町」を出版し、写真展を国内外で開いている。福島の実態を広く知ってほしいからだ。現在、第二弾の写真集の出版に向けて編集を続けている。約二百五十点を収め、来年一月ごろの完成を目指す。

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 飛田さんの車はJR常磐線の陸橋を越えた。昨年三月に帰還困難区域を除いて避難指示が解除され、町や県は市街地の再生を目指すが、駅前にほとんど人影がない。九月末現在の町内居住人口は約八百五十人。現在も約二万人の町民が、県内を中心に全国で避難生活を送る。

 国道6号を渡り、沿岸部近くまで来た。飛田さんが、はるか南にかすむ第一原発の排気筒を見ながら言った。「浪江町内には世界最大級の水素製造拠点ができるって聞いたけど…。スーパーや病院に気軽に行けるようになって、若い人が戻れるような町にならないと、厳しいよね」 (福島特別支局長)

 

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