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【長久保宏美のリポート福島】

「故郷 取り戻せないのか」 津島原発訴訟の原告団事務局長 

武藤晴男さん=福島県郡山市で

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 「野球・ソフトボール福島市開催」。東京五輪の横断幕が、JR福島駅に掲げられている。聖火リレーも福島県からスタートする。一方で、東京電力福島第一原発事故で帰還困難区域となった浪江町津島地区の住民は、今も元の家に戻ることができない。故郷の原状回復と慰謝料の支払いを、国と東電に求める集団訴訟で原告団事務局長の武藤晴男さん(61)に、この八年を振り返ってもらった。

 武藤さんに最初に会ったのは昨年十月二十四日、国会近くの参院議員会館の会議室。弁護士の宇都宮健児さんや作家の鎌田慧さんらとともに、原発事故で避難している人たちへの住宅支援についての記者会見だった。

 「われわれは(国や県から)放っておかれている状況です。住み慣れた古里は帰れない土地にされている。地元の人同士のコミュニケーションもすさんでいる」

 厳しい表情で切り出した武藤さん。後日、詳しい話を聞きたくて、福島県郡山市に移った武藤さんを訪ねた。原告総数二百二十九世帯、六百八十人を率いる武藤さんが、こう話し始めた。

 「自分が選択した場所ではない所に住む。それが、どれだけストレスになるか、分かりますか。高齢者や小さな子どもがいる家庭は、とても耐えられないですよ」

 原発事故当時、武藤さんは両親と妻、息子の五人で津島の自宅で暮らしていた。大正十一(一九二二)年生まれの父親は終戦後、旧満州(中国東北部)から復員し、津島で農業を始めた。自宅は二度火災に遭い、生活は貧しかった。武藤さんは高校卒業後、県外で会社勤めをした後、町内で電子部品の加工業を始めた。社員は一時三十人を数えた。会社経営の傍ら、高齢の父の農業を手伝った。平凡でも穏やかな生活が一生続くものだと思っていた。

 そこに大震災と原発事故が発生。嫌がる高齢の父を説得し、家族で本宮市の体育館に避難した。

 「父は足が不自由でした。トイレは外。避難者でごった返す中を、一人でつえを使って移動なんて、とてもできない。そこで、父親におむつをしてほしいと頼んだのです。屈辱的だったと思いますが、父はおむつを当て、冷たい体育館の床に拳をつき、唇を噛(か)み、無言で座っていました」

 親戚のいる埼玉県を経て、茨城県取手市へ避難。ある日、母が警察官と一緒に帰ってきた。「晴男、家がどこだか分からなくなっちゃった」。避難生活の耐え難いストレスと環境の変化から、認知症を発症した。妻も心療内科に通院し始めた。

 武藤さんはその間も、浪江町の市街地にあった会社や自宅の様子を、毎日のように車で見に行った。三カ月で二万キロを走った。その後、福島県鏡石町のアパートへ。二〇一四年には現在の家を新築した。父は新居に引っ越す三カ月前に、高齢と避難生活による衰弱が原因で亡くなった。

 「おれ、何か悪いことしたんか。死ぬときは自分の家の畳の上がいいな」。死を意識した父が、か細い声でつぶやいたという。

 「最期の言葉は『晴男、あとは頼むぞ』でした。二年後には母も郡山市内の施設で急死。知らない土地で死なせてしまった。親不孝だと自分を責めました。これから先、私たちは故郷を取り戻すことはできないのでしょうか。今の津島の姿は、見るも無残です」 (福島特別支局長)

浪江町津島地区での「現地進行協議」(事実上の検証)で、福島地裁郡山支部の裁判官ら(左の3人)に、現地の状況を説明する原告弁護団

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