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【長久保宏美のリポート福島】

「通うほど 新たな問題が」 8年間、自費で被災地取材 横須賀在住のフリーライター

自費で取材を続ける鈴木博喜さん=福島市で

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 神奈川県横須賀市のフリーライター鈴木博喜(ひろき)さん(47)は、東京電力福島第一原発事故から八年間、自費で被災地の取材を続けてきた。移動はバスか徒歩。発表の場は「民(たみ)の声新聞」と名付けたブログ。月の半分はコールセンターへの派遣の仕事をして収入を得る。なぜ、そこまでして被災地を取材し続けるのか。

 震災当日、鈴木さんは東京・JR新宿駅南口近くの路上にいた。新しい職場の説明会を兼ねた面接の日だった。ラジオで東北地方で震度7と知った。なぜかこの時、元地方紙記者の心に火がついた。「現場に行かないと」

 しかし、お金がない。新幹線が復旧しても、横須賀市からだと片道一万円以上かかる。当初はJR東日本が復興支援の一環で発売した割引切符を利用。その後は高速バスで片道七時間以上かけた。震災から三カ月後、まずは福島市へ。何のあてもなかった。ただ、友人から借りた放射線量計を持って市街地を歩いた。

 当時、福島市内でも放射線量が高かった。

 「犬の散歩をしているおじさんが声を掛けてきました。何をしているのかと言うので、フリーの記者で取材に来たと答えたら、よく来てくれたと言われたんです」

 おじさんは一気にまくしたてた。「テレビで流れていることは現実と違う。ありのままのことをみんなに伝えてほしい」。そこには「ただちに健康に影響はない」と繰り返す官房長官の言葉と、現地の人たちが感じている不安とのギャップがあった。

 「取材していいよと、地元の人に許可をもらったような気になった」

 福島通いが始まった。月一回が二週間に一回になり、気が付くと毎週のように二本松市など福島県中通り地方を歩いていた。「原発がある海岸沿いの浜通りは、大手メディアが必ず取材する。自分は車の運転が苦手なこともあって、電車とバスで移動できる中通りにこだわろうと決めた」。すぐにブログを始めた。現場を歩いて見聞きしたことや、除染しても不安が消えない人々の思いをつづった。

 「当時、原発から離れた郡山市の人にも危機感があったんです。放射能の影響に強い不安を感じていた。だから、ある意味、取材はしやすかった」。ただ、ネット上では「わざわざ福島の放射線量が高い場所に行って不安をあおっている」と批判された。

 二年ほど前からは、取材の難しさを感じるようにもなった。「飯舘村の方が言っていましたが、『線量インフレ』という言葉がある。例えば、事故発生当初、毎時二〇マイクロシーベルトだった場所が、今は一マイクロシーベルトになった。もう大丈夫だろうと。大丈夫ではないレベルなのに。放射線測定をしているのを見て『まだ、やっているのか』と言われる」

 しかし、「被ばくリスクは低い方が良いので、近づかないように注意を促すことは間違っていない」と思い続けた。「自分で線量を測り、地元の人の話を聞き、行政との温度差を指摘した。勝手な使命感ですけどね」

 八年間続けてきた原動力を、こう語る。「ある自治体の職員がそっと近寄ってきて『あなたの記事読んでます。頑張って』と言われました。うれしかった。福島へ通えば通うほど、新たな問題が出てきてやめられなかった。そして何より、福島の人は温かい」 (福島特別支局長)

事故の2年後、原発から南西に約90キロの福島県西郷村(中通り)にあった、除染で出た汚染土を入れた袋。現場の放射線量か、6・11マイクロシーベルトと記載されている(一部画像処理)

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