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【長久保宏美のリポート福島】

荒川の児童、疎開の写真 白河の団子店から見つかる

「荻原屋」の店の前で集合写真に納まる旧第八峡田国民学校の児童らと須永玲子さん(前列右から2人目の少女)=須永玲子さん提供

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 福島県白河市の団子店「荻原(おぎわら)屋」の店舗から、太平洋戦争中に学童疎開した子どもらの集合写真が見つかった。東京都荒川区にあった第八峡田(はけた)国民学校の児童らで、当時八歳だった同店の経営者、須永玲子さん(84)も一緒に写っている。「もしこの写真に写っている人で縁がある人がいたら、写真の複製を差し上げたい」と話す。

 須永さんによると、写真が発見されたのは昨年春。白河市の名勝地「南湖(なんこ)公園」にある築五十年以上の店舗兼住宅は、東日本大震災の影響で二階部分が傾いてしまった。昨年三月に改装オープンする際に、押し入れにしまってあったアルバム類から集合写真が出てきたという。

 須永さんが覚えているのは、戦争中、離れの部屋に自分と同じぐらいの年齢の子どもたちが疎開で来ていたことや、夜になると「お母さん、お父さん」と寂しがって泣いていたこと、そして「はけた」という名前の東京の小学校の児童だった、ということだ。

 昨年暮れに写真の存在を知った記者が、荒川区教育委員会に関連資料を照会したところ、区立図書館「ゆいの森あらかわ」の書庫に複数の資料が保管されていることが分かった。写真に写っているのは第八峡田国民学校の三年生から六年生の男児で、須永さんの父親が当時は珍しかった写真機で撮影したという。

 正確な撮影年月日は不明だが、「福島の空の下で−荒川区学童集団疎開50周年記念誌」(区教委発行)によると、第八峡田の児童は、一九四四年八月十七日から終戦の年の四五年十月二十八日まで、三陣に分かれて計三百六十四人が当時の白河町・南湖周辺の旅館など十カ所に分散疎開した。

 「宿舎・寮等名」の欄に、「荻原屋支店」(現在の荻原屋)には二十四人が宿舎としたとあるが、別の資料には十四人という記載もある。

 写真に写っている一人と判明した荒川区西日暮里の渡辺忠雄さん(85)=後列左から四人目=は「列車で白河まで行った。南湖の湖面が寒さで凍っていて、その上を歩いて危ないと注意されたことを覚えている。あの団子屋さんは懐かしくてね。戦後、結婚した後に行きましたよ」と話す。

 同国民学校はその後、区立第八峡田小学校となり、さらに九三年四月に旧第一峡田小学校と統合し、閉校した。

 須永さんは写真を見ながら「食事は、すいとんばっかり。寒い時季は、みんな足の先があかぎれで痛そうで、かわいそうだった。ここから東京に戻った後、東京大空襲で亡くなった人もいたと聞いた」と振り返った。

 掲載写真に関する問い合わせは荻原屋=電0248(23)3679=へ。 (福島特別支局長)

疎開児童らの写真を手に当時を振り返る須永玲子さん

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