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【長久保宏美のリポート福島】

移住夫婦 震災と原発事故乗り越え モモ農家として生きてゆく

果樹園でモモの栽培について語る大内徹也さん(左)と妻美千代さん=福島市で

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 東日本大震災と福島第一原発事故の発生翌月の二〇一一年四月に、津市から福島市に移住した夫婦がいる。大内徹也さん(43)と妻の美千代さん(43)。福島でモモを生産するためだったが、当時は農業どころか、県外に避難する県民が多かった。そんな時期に、なぜ会社を辞めてまで福島へと向かったのか。

 大内さんは和歌山県新宮市、美千代さんは三重県四日市市出身。大内さんは東京都内の大学を卒業後、大手スーパー「イオン」に入社し、三重県鈴鹿市の店舗に配属された。担当は青果。仕入れで農家と話をするうちに、青果、それも果物を自分で作ってみたいという気持ちになったという。

 岡山県のブドウ農家を見学するツアーに参加したり、山梨県にブドウやモモの農地の見学に行ったりした。しかし、果物農家として独立したいという大内さんに、両親も美千代さんも反対した。「本気でそう思っているのか、あの時は分からなかった」と美千代さんは振り返る。

 いったんはあきらめた大内さんだったが、数年後、またも果樹栽培への意欲が強まり、再度、美千代さんらに相談して決断した。

 震災の二年ほど前、地方での新規就農者を募集するイベントが都内で開かれた。訪れた大内さんは、福島県の「果樹研究所」という施設が福島市内にあり、そこで一年間研修生を受け入れていることを知った。

 「福島ならモモだ」。両親が二本松市出身で、郡山市に住んでいたことも決め手の一つとなった。イオンを退社すると決め、一一年三月までに津市のアパートの退去と福島市のアパートの入居手続きを終えた。研究所への受講申し込みも完了した。そこに、大震災と原発事故が起きた。

 「福島でモモ農家として生きてゆくという段取りがすべて動きだしていた。もう後戻りできなかった」と大内さん。震災と事故の影響が続く中、研修は同年四月に予定どおり始まった。翌年の四月からは桑折町(こおりまち)のモモ農家でさらに一年間、美千代さんも参加して研修を重ねた。

 原発事故後、福島産のモモの価格は下落したが、周囲の農家は黙々と生産を続けていた。「県外に逃げている人がいるときに、よく来たね」。農家での研修を始めて二、三カ月後、地元の農家の人にそう言われた。二人ともうれしかった。

 現在は福島市飯坂町に中古の一戸建てを購入し、四・二ヘクタールの農地を借りてモモのほかにサクランボ、リンゴをつくる。繁忙期を除き、夫婦二人で収穫、梱包(こんぽう)、出荷までの作業をこなす。

 販売先はほとんど口コミ。「三重県などの知り合いなどに送って、お客さんが増えた。国会内の復興支援の売店に出した『黄金桃』は珍しかったのか、三十分で売り切れた」と美千代さん。大内さんも「生産は軌道に乗ってきた。おいしかったと直接、言われるのがうれしい」と手応えを語る。

 新しい年が明けた。モモの木の剪定(せんてい)が始まり、十月中旬まで、切れ目なくモモと向き合う。

 大内果樹園の農産物に関する問い合わせは「里山ガーデンファーム」=電0243(24)1001=へ。 (福島特別支局長)

 

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